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ジャーナリストの仕事 資格で職能意識維持 イタリア 最大の脅威は命の危険<山田健太のメディア時評>


ジャーナリストの仕事 資格で職能意識維持 イタリア 最大の脅威は命の危険<山田健太のメディア時評> 伊ジャーナリスト協会に張られている過去の犠牲者が並ぶポスター
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 プロフェッショナルの仕事はカッコよくて憧れの対象だ。テレビ番組でも、その種の番組が人気を博している。その中には「資格」を有するものもあれば、いわゆるギルド(専門職能集団)を形成して、その技能を受け継いでいるものも少なくない。後者の典型例は歌舞伎や落語といった伝統芸能だ。前者には図書館司書や博物館学芸員があり、国家資格が付与され、その資格を持つ者の勤務が法制度上原則とされている。

 ジャーナリスト(記者)はといえば、日本の場合、何ら資格もいらないし、専門的な教育を受ける必要もない。ジャーナリストを自称すれば、だれでも語れる肩書だし、なれる職業でもある。そうした〈自由度〉がもたらす、プラス・マイナスを考えてみたい。

記者は国家資格

 同じG7国のイタリアでは、記者は国家資格だ。ジャーナリスト協会が、法に基づき資格者のリストを管理している。記者になりたい者は最初、報道機関で見習いとして職能を積み、18カ月経(た)つと国家試験受験資格を得る。筆記と口頭の試験を通過すると晴れてリストに掲載されるという仕組みだ。

 したがって、国家資格とはいうものの、個別に誰をジャーナリストにするかについて、国(政府)が直接関与することはない。さらにいえば、法によって決められた特定の職能についてアルボ(登記簿)と呼ばれ資格者リストが作成される仕組みで、記者職もその一つということだ。報道機関はそのリストから記者を雇用する義務はないものの、例えばイタリアを代表する新聞であるラ・レプブリカ紙では、編集局は全員、記者資格を持ったジャーナリストであるという。

 ちなみにジャーナリストには2種類あって、一つが国家試験を通過した記者資格を持つ約3万人の「プロフェニスタ」で報道のみを業にしている者、もう一つが「プブリティスタ」で他の仕事もでき、約7万人いる。逆に言えば、前者の記者は例えば広告に出て収入を得ることはできない。なお、市民の表現の自由の発露として、リスト掲載者以外が新聞に寄稿したり放送番組に出演したりするのは自由である。

警察が保護

 同協会はこの制度について、法制度であるがために硬直的で時代遅れの面も否定できないとしつつ、職能意識の維持に役立っているという。また外形的にジャーナリストであることが明確であることも大切であるとする。

 イタリアの場合、記者の最大の脅威は命の危険である。マフィアや右翼からの襲撃が継続しており、イタリアでは過去に30人ほどが犠牲になっているほか、現在でも22人のジャーナリストが24時間、武装警官のボディーガード付きの生活を強いられているという。さらにそのほかにも、約250人が警察の保護下で生命を守られている現状がある。

 ただし同国では、そうした直接的な身体的脅威は減少傾向にあるとされ、その代わりに増加しているのが恫喝(どうかつ)(スラップ)訴訟だという。個人を狙い撃ちした高額の損害賠償訴訟を指し、記者活動に大きなプレッシャーを与えているようだ。国際ジャーナリスト団体や国際ペンのウェブサイト上でも、憂慮する記事が見られる。

 イタリアも偶然、日本と同じく憲法21条で表現の自由を定めているが、刑事・民事の双方での名誉毀損(きそん)訴訟といった司法的脅威の前に、憲法保障が無力化しているとの危機感がある。そうしたこととも関連して、EU議会で審議中のメディア自由法に期待するものがあるようだ。

報道倫理綱領

 もう一つの資格制度の効用が、報道倫理の側面だ。自分たちが表現の自由を守っているという意識を待たざるを得ないし、それが法の枠組みの中で求められていることになる。その裏返しとしては、虚偽や誇大な情報を流すことは許されないし、そうしたデマと闘っていく社会的責務を有することになる。

 ジャーナリスト協会が制定する報道倫理綱領については、どちらのカテゴリーのジャーナリストも遵守(じゅんしゅ)が求められている。そして、綱領違反があった場合は除名(リストからの削除)措置がとられ、事実上、国内での記者の道は閉ざされることになる。

 プロとアマの境界線が曖昧になり、結果としてジャーナリストへの信頼感が総体的に低下する状況は世界共通といわれている。だからこそ、社会的にもジャーナリスト自身にとっても、公共的な役割を自覚することは大切だ。そのための一つの方策として、職能を明確にすることは一定の効果が見込めそうだ。

閉鎖的な裁判所

 11月2日は国連「ジャーナリストが殺されないための日」(ジャーナリストへの犯罪不処罰をなくす国際デー)だ。日本では命が狙われることは一般にないものの、政治家等からの恫喝訴訟は続いているし、何より政府・政治家にも司法界にもジャーナリストに対するリスペクトが感じられない。むしろメディア(の報道)を敵視するような判決も少なくない。

 そうした背景には、報道によって司法総体あるいは裁判所や個別の法廷の権威が損なわれることに対する恐怖心や敵愾心(てきがいしん)があるように思えてならない。法廷撮影の全面禁止に始まり、開廷前後の法廷内での訴訟当事者への取材を一切認めないなど、日本の頑(かたく)なな取材アクセス・ゼロ状況は、世界的にみて決して当たり前ではない。しかも、少し前までは認められていた裁判所敷地内での録画・録音・撮影も、いまは完全シャットアウトと状況は悪化している。

 記者が傍聴席でパソコンを使用することも本土では一切禁止だし、多数が詰めかける事件でビデオリンクで傍聴席を増やす努力も全くする気配がない。こうした閉鎖性を当然視する裁判所の姿勢は、国連が憂える犯罪に目を瞑(つむ)る司法に通じるものがある。 

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。