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公益性とプライバシー 問う「不都合な真実」 被害者保護、最低限の責務<山田健太のメディア時評>


公益性とプライバシー 問う「不都合な真実」 被害者保護、最低限の責務<山田健太のメディア時評> 地位協定の抜本改定が必要だとして、相次ぐ米兵犯罪に抗議する声明を発表した憲法研究者らの会見=8月2日、衆議院第2議員会館
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 米兵犯罪の隠蔽(いんぺい)が相次いで明らかになっている。今月5日にも別の事件が新たに表面化し、6月に社会問題化した前に発生した事件について、政府は知っていながら口をつぐんでいたことになる。であれば、まだ明らかになっていない事案があるのではと疑う。沖縄以外に、青森、東京、神奈川、山口、福岡、長崎で、少なくとも2021年以降、地元自治体に情報共有されておらず、県警・地検や政府が事件を公表してこなかったことが判明した。ではいったい、21年を境にどのような方針転換が「中央」でなされたのか。

 初報の6月当初は、県議選を念頭に置いての政権党に対する忖度(そんたく)が働いたとの見方も強く、いまだその見方は否定できないものの、より政府や警察組織の根深い問題が見えてきた。さらにこうした「不都合な真実」に目を背ける傾向は、政府の側だけではなく報道界にも存在する場合があり、これが政府の隠蔽を後押ししている側面もある。

 一般ルール

 止まない犯罪の根底に、不平等で憲法を超えた存在になっている日米地位協定があることは誰もが認めるところだ。協定16条は、軍関係者に「日本国の法令を尊重」するようには求めてはいるものの、いわばお願いベースで、「不処罰の風潮」が米国側のみならず日本側にすら蔓延(まんえん)している。憲法で保障されている国民の人権を守るためには、沖縄県も繰り返し求めている対等の関係にするための抜本改正が必要なことは言うまでもないが、「尊重を順守に」変えることで意識変革を求めることくらいは、最低限すぐにできよう。

 ただし全国に広がる犯罪隠蔽の実態は、単に米兵だからというだけではなく、一心同体の米国を含む政府関係者の犯罪、とりわけ性犯罪を公表しないという一般ルールに帰着をする面もありそうだ。それを露呈したのが、5月に明らかになった横浜市教委の教員性犯罪隠しだ。市教委は事件化したのちも処分時において公表せず、さらに公判廷において職員を動員して傍聴席を占有、一般傍聴者をブロックしてまで事実を隠蔽しようとしていた。

 こうした扱いは他の自治体と連携をしていたともされており、決して特異な事例ではなかったことが窺(うかが)われる。実際、教員性犯罪については教育委員会として公表しないことが全国的に一般化しているとされる。その時の理由は総じて「被害者のプライバシーを守るため」であって、教員名や勤務校を明らかにすることで被害者が特定されるからと説明されてきた。この理由づけは、米兵犯罪と共通するものといえる。

 権力犯罪

 確かに被害者を守ることはとても大切だ。横浜市教委も被害者側からの要請を受けてのことであったと弁明している通り、当事者にとって一切事件について世の中に知られたくないという気持ちはもっともなことだ。しかし一方で、事件を社会で共有化することで、累犯を未然に防ぎ、事件発生の構造的な欠陥が明らかになり、制度改革につながることにもなろう。

 とりわけ教員や軍の犯罪は明確な権力犯罪でもあり、単に加害者個人の問題にとどまらない。さらに沖縄をはじめ基地の街における米兵犯罪は、まさに日本の法制度の欠陥が招いた結果という側面もあるうえ、とりわけ沖縄県内の基地犯罪は極めて大きな社会的関心事である。その意味で、これ以上ないほどの公益性・公共性が高い事案であり、きちんとした情報開示が最も優先される事案であるといえるだろう。

 そうしたなかで政府や県警、あるいは教育委員会といった行政機関が、身内や米軍の犯罪を「不都合な真実」として隠蔽するルールを確立して、まさに統一的に運用してきた結果が、今日の事件に繋がっている。現場記者の機転で、米兵や教員の犯罪が「偶然」明らかになったものの、それがなかったら、この悪慣習はまだまだ続いていたことになる。

 念のために確認するならば、こうした事件の存在を社会で共有するためには報道が必須であり、事実を報じることを前提として、いかに当事者の人権(プライバシー)を守るかが問われることになる。もちろん、氏名を報じないことも含め、とりわけ性犯罪において被害者が特定されない方策をとることは、報道をする者の最低限の責務だ。

 冒頭に触れた事案で県警は、新しいルールに則(のっと)り書類送検段階で県に通達したという。しかしそもそも、沖縄駐留米兵による性犯罪という、通常事件に比して少なくとも公共性・公益性が低いとは思われない事案で、地位協定上の取り扱いで身柄拘束ができないという理由から、書類送検まで秘匿すること自体に問題がないのか。「卑屈」という表現を使いたくなる対応である。

 取材・報道批判

 ただし難しいのは、この報道価値の順番付けに異議を唱える声が法曹関係者に強い現実がある。すなわち、被害者がNOであれば原則、取材・報道はすべきではないとの声だ。最近では23年12月14日にも、日本弁護士連合会は「報道機関に対し、犯罪被害者等の尊厳及びプライバシーを尊重して、その置かれている状況や意向に十分配慮することを求める意見書」を発表、いわゆる犯罪報道を厳しく糾弾した。そこでは、集団的過熱取材が発生し、犯罪被害者等の私生活の平穏が脅かされる事態が生じるなど、報道機関による取材・報道が深刻な2次被害を生んでいるとする。そして、こうした憲法で保障されているプライバシー権を蹂躙(じゅうりん)する事態がいまだ継続しているとともに、ネットの発達により、報道被害はより深刻かつ重大になっていると主張する。

 同意見書も「犯罪被害者等が公人の場合等、犯罪被害者等の意向に反してでも報道すべき場合もある」と注釈をつけつつも、「犯罪被害者等の権利利益保護への意識の高まりと報道機関の姿勢の乖離(かいり)」があり、このままでは市民からの信頼性を損なう危険があると警告する。こうした声を背景に、政府・行政機関の事件の未公表が進んでいるということが否定できない。

 確かに、直近の能登半島地震の取材においても、避難所において一部報道機関の心無い振る舞いがあったことが報告されている。これらはまさに報道側の不都合な真実に他ならない。しかし残念ながら、こうした問題に真摯(しんし)に対応した形跡はなく、その場をやり過ごすことでじわじわと市民からの嫌悪感はたまっているのではないか。

 こうした状況を、ある意味で行政は「利用」して、情報の隠蔽を図っているともいえよう。それは私たちの知る権利を大きく毀損(きそん)するものであることを考えれば、この悪循環を断ち切る第一歩は、むしろ報道機関の側から踏み出す方が早道ではないか。いずれにせよ「不都合な真実」に背を向けることでの最大の被害者は、市民だ。

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。