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マニラ市街戦 忘れない戦争加害<乗松聡子の眼>


マニラ市街戦 忘れない戦争加害<乗松聡子の眼>
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 私は10代後半に留学したカナダの国際学校で初めて大日本帝国の加害の歴史を教わった。授業ではなく、アジア出身の同級生たちからである。そのうちの一人、フィリピン人のイギーからは「日本人にもいい人がいるんだ」と言われた。

 無理もない。日本軍は1942年初頭からフィリピンを軍政下に置き、「日本兵による婦女子への暴行、物資の掠奪、残忍な拷問、ビンタの濫用は、フィリピン人を震えあがらせ、かれらの怒りと恨みをかう」ことになった(早瀬晋三「戦争の記憶を歩く 東南アジアのいま」岩波書店)。イギーにとって、私が、日本人で最初に知り合った「いい人」であってもおかしくはなかった。

 41年12月8日に始まった日本軍によるアジア太平洋各地の英米植民地に対する攻撃は、「真珠湾」で始まったのではなく、英領マレーシアのコタバル上陸が発端だった。12月8日だけでも香港、シンガポール、グアム、フィリピンなどが攻撃された。先日、玉城デニー知事が視察したクラーク飛行場跡地も、この日の日本軍の標的の一つであった。戦争続行のための資源を求めて東南アジアに侵攻する日本にとって、フィリピン配備の米軍航空戦力は脅威であった。

 アジア太平洋戦争の中でもフィリピン戦は住民約110万、日本軍は約50万という死者を出した凄惨(せいさん)極まりない戦いであった。軍隊より住民の被害が多かった点、住民虐殺、歴史的建造物破壊など、沖縄戦との共通点も多い。「慰安所」や拉致・監禁による性暴力も横行した。45年2月3日から3月3日までのマニラ市街戦では、市民70万のうち10万人もが命を落としたと言われている。その多数は日本軍による虐殺だった。

 フィリピン市民は忘れていない。95年にはマニラ市街戦の被害者を記憶する「メモラーレ・マニラ」が建立され毎年2月に追悼式が開催されるが、「日本帝国軍による凶悪な行為の犠牲者」(碑文より)を悼む場に、日本政府関係者は不在だ。2016年、明仁天皇夫妻は「慰霊の旅」としてフィリピンを訪れたが、そこには行かなかった。45年2月14日、近衛文麿が降伏を促した「近衛上奏文」を裕仁天皇が一蹴し、沖縄戦を招いたが、ここで降伏していればマニラ市街戦も中断し、たくさんの命を救えたはずだ。

 イギーの父親シトはマニラ市街戦当時17歳だった。家族とともに家を追われ、焼けた廃虚の中に隠れながら避難した。日本兵が通りがかったので焼け跡に隠れやけどを負った。見つかって殺されるよりはよかった。近所の友人は日本兵から銃剣で何度も突かれ、最後はガソリンをかけられ焼かれた。37年後、私とイギーがカナダで会って友だちになれたのは、シトがマニラ戦を生き延びたからだった。

 地上の地獄と化したマニラ市街戦と沖縄戦は直結している。東南アジアへの戦争責任を日本人は忘れがちだ。2月はシンガポール陥落の記念日(15日)もある。留学時代のルームメートは中華系のシンガポール人で、日本軍による何万もの華僑「粛清(しゅくせい)」について語った。このような歴史を日本の学校に代わって教えてくれたアジアの同胞に感謝しながら、79年前に思いをはせ、目を閉じたい。

 (「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)