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【深掘り】捜査阻む日米地域協定の「壁」、今もそびえ立つ 沖国大ヘリ墜落20年


【深掘り】捜査阻む日米地域協定の「壁」、今もそびえ立つ 沖国大ヘリ墜落20年 ヘリ墜落現場で機体の写真を撮影したり、内部をのぞき込んだりする米軍関係者ら=2004年8月14日、沖縄国際大
この記事を書いた人 Avatar photo 大嶺 雅俊

 沖縄国際大米軍ヘリ墜落事故に関する県警の捜査は、米軍の協力が得られずに難航した。基地の外で発生した事故でも、米軍の同意がないと十分な捜査ができないという日米地位協定の問題点が浮き彫りになった。その後の米軍機事故でも同様の事態が繰り返されている。ヘリ墜落から20年経過後も、米軍の裁量に捜査の行方が左右されるという地位協定の「壁」がそびえ立つ。 

「同意」得られず

 「なぜできないのか」。ヘリ墜落翌日の2004年8月14日。キャンプ瑞慶覧の米海兵隊法務部で、県警捜査1課の石垣栄一課長=当時(77)=は法務部長に迫った。現場検証の同意が得られず、思わず机をたたいた。手には裁判所から得た検証許可状があった。「上司に相談する」と繰り返す法務部長。3日後、米軍は要請を正式に拒否した。

 日米地位協定17条の「合意議事録」は、「日本国の当局は(中略)合衆国軍隊の財産について、捜索、差押え又は検証を行う権利を行使しない」とする。ただ、その後に「合衆国軍隊の権限のある当局が(中略)同意した場合は、この限りでない」と続く。

 刑事特別法13条にも同様の趣旨の記載があるほか、地位協定は「必要な捜査の実施並びに証拠の収集および提出について、相互に援助しなければならない」とも定める。

 石垣氏は、他の米兵事件では基地司令らの同意を得ながら、基地内の兵舎の捜索や被害品の押収など必要な捜査をしてきた経験があった。ヘリ墜落の現場検証も「当然認められると思っていた」と振り返る。だが結果は拒絶。「『なんで警察が米軍のことに口を出すんだ』。彼らからは、そんな様子が見てとれた」

墜落現場を米軍に封鎖され、機体に近づけないまま座り込む県警の捜査員あら=2004年8月13日、宜野湾市の沖縄国際大学

 現場検証ができたのは米軍が機体を撤去した後。米軍は搭乗していた整備兵らの聴取、氏名の公表さえも拒んだ。時効直前に整備兵4人を航空危険行為処罰法違反容疑で氏名不詳のまま書類送検したが、全員が不起訴となった。

 その後も地位協定は日本側の捜査を阻む。

 16年12月の名護市安部でのオスプレイ墜落では、第11管区海上保安本部が米軍に捜査協力を申し入れたが、米軍は無視する形で機体の解体作業を実施した。中城海上保安部は機長を氏名不詳で書類送検したが、不起訴となった。17年10月に東村高江の民間地に米軍ヘリが不時着、炎上した事故も県警は被疑者不詳で書類送検せざるを得ず、不起訴となった事例だ。

地位協定を補強

 ヘリ墜落の直後、米軍は現場を占拠し、県警や消防、大学関係者らを締め出した。対応への疑問や反発を受け、日米両政府は05年4月に米軍機事故に関するガイドラインを策定。事故現場に「内周規制線」と「外周規制線」を設け、現場に近い「内周」は日米共同管理、「外周」は日本側が規制すると定めた。

 一方で、内周の内側への立ち入りには日米相互の同意が必要とし、事実上、米軍の排他的な管理が可能な形だ。事故機の残骸などについて米軍が管理するとし、地位協定による特権を補完する格好となっている。

 高江の事故で米軍は日本側の立ち入りを認めず、機体だけでなく周辺の土壌をも持ち去った。この対応への批判が高まり、日米両政府は19年、指針を改定。内周規制線内に「迅速かつ早期の立ち入り」ができることなどを盛り込んだ。ただ、立ち入りに同意が必要な点などは変わらない。

 (大嶺雅俊)