【キラリ大地で】アメリカ 登喜子・トリットさん(日本語講師)


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ユーモアを交えた会話で、いつも周囲の笑いを誘う登喜子・トリット(旧姓大城)さん

沖縄方言学ぶ本作りたい

 現在、バージニア州にあるジョージメイソン大学で日本語講師として教べんを執る登喜子・トリット(旧姓大城)さんは那覇市出身の57歳。琉球大学初等教育科を卒業後、ケンタッキーの大学に留学し猛勉強の末、2年で英語学部の修士号を取得した。

 帰国後、琉球大や沖縄大で英語を教えるが、2年後、オハイオ大学への再度の米留学を果たす。時は日本のバブル最盛期、米国の大学では日本語ブームの波が押し寄せていた。学費全額免除で日本語学科に籍を置き、日本語を教える助手を務めた。大学院生として幸運なことに琉球語研究者の第一人者、レオン・セラフィン教授の下で沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」を研究。「おもろさうしにおける琉球語の尊敬語」の修士論文を書いた。
 二つの修士号を取ったにもかかわらず、登喜子さんは就職が決まらずにいた。「ある日、米国の学生に日本語で詩を書くように言うと、最初、詩など書けないと渋っていた学生全員が素晴らしい詩を書いてきた。その上手な出来栄えに感激し、日本人の教授に目をうるうるさせながらそのことを報告した。するとその教授が何を思ったのか由緒ある名門ミシガン大学の夏季集中講座の講師の仕事を勧めてくれた」と話す。「自分の学生への熱い思いが伝わったのでは」と当時を思い出す。
 オハイオ州からミシガン州に引っ越した。夏だけの仕事を終えた後も常勤の講師として採用された。「ミシガン大学時代は公私ともに充実し、独身貴族を謳歌(おうか)した」と話す。だが気が付けば36歳。アメリカには家族がいない。自分の将来を思い、不安になり、クリスマス休暇に母親の元に「サプライズ里帰り」をした。結局米国へのビザが取れずミシガン大を辞め、県語学センターの主任の職に就いた。約1年後に結婚。38歳で長女を出産し、その後夫の仕事の関係でアメリカに移住し41歳で長男を出産した。
 登喜子さんは琉球方言が絶滅危惧言語であることを知り、ワシントンDC付近の県人に呼び掛け、「沖縄方言教室」を自宅で始めた。「今は方言を学ぶための教科書を作りたい」と話す。望郷の念か、このごろは沖縄のアートに引かれると言う登喜子さんは好奇心旺盛で飽くなき探究心で数々のことに挑戦している。「前進あるのみ」をモットーに素敵(すてき)な50代を送っている魅力あふれる女性だ。(鈴木多美子通信員)