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戦争が引き起こした悲惨を乗り越え、1995年に50年ぶりに沖縄を訪れ、県民との友愛を誓った元アメリカ兵が5月29日、90歳でこの世を去った。
元米兵の名はチャールズ・バードさん、アラバマ州に生まれ、フロリダ州ペンサコーラで死去した。ペンサコーラ沖縄県人会元会長の湧上和子ラッセルさん(63)=南城市玉城出身=が書いた別れの手記の概要を紹介する。(当銘貞夫通信員)
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アメリカ人は12月7日の真珠湾攻撃を思い、日本人は8月6日広島、8月9日長崎の原爆、そして終戦記念日、ウチナーンチュは6月23日慰霊の日を思う。
ウチナーンチュを巻き込んだあの悲惨な戦争、そして人民に手榴弾を与え捕虜になるよりは「自決」することを促した。戦後あっちこっちでの「自決」のことが報道された。
しかし終戦50周年に当たる1995年2月、あるアメリカ兵が嘉手納基地の学校の先生に書いた手紙により、具志川市の「集団自決」(強制集団死)が明るみになったことが琉球新報に掲載された。
当時21歳の衛生兵チャールズ・バードさんはパトロールをしていた自分たちの射撃で若い青年たちを殺したのだろうかと心に重荷を持って50年間、誰に語ることもなかったが、青年たちはどうしているのだろかと思い、手紙を書いたのだ。
95年、バードさんは沖縄で慰霊祭のとき、生存者の方々と対面することができた。バードさんは若い青年たちの死は「集団自決」であったことを知り、50年間の心の重荷を下ろすことができた、と語った。
バードさんの記事がアラバマ州フォーリー市とモビール市の新聞に載ったときから知り合いになった二人のウチナーンチュ、名護和江コーナーズさん(68)=うるま市与那城出身=と私はバードさんが亡くなる間際まで交流を深めていた。
バードさんが5月29日に亡くなり葬式で、人間ドキュメンタリーとして作られたテレビ朝日ステーションEYE“沖縄戦集団自決 50年の沈黙”やCBSニュースのDVDが流され、私が英語に訳して説明した。
葬儀で米国在郷軍人を代表してあいさつをしたマギーさんは「バードさんはアメリカにおいても沖縄においてもヒーロー(英雄)だ。そして今、新しい指揮官(神)の元に移ったのだ」と語った。
戦後生まれの私は戦争のことは知らない。戦争体験者がだんだん年老いてきた今、もっと若い人々に語り続けてほしい。アメリカで名前を聞かれたとき、平和の祈りをこめて「和子」(Peace)と両親が名付けたと説明している。