老朽化、保存の危機 空手家・喜屋武朝徳さん最期の家


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チャンミーグヮーが最期を迎えた家の前で「家を保存したい」と思いを強くする石川正一さん=17日、うるま市石川の石川正一さん宅

 【うるま】9月20日は沖縄空手の大家の一人、喜屋武朝徳さん(1870―1945年)の命日。小さい目が特徴で「チャン(喜屋武)ミー(目)グヮー(小)」と呼ばれた喜屋武朝徳さんは68年前、うるま市石川の米軍捕虜収容所で亡くなった。

当時、その収容所として使われた石川正一さん(78)宅には現在も空手関係者が訪れる。だが瓦屋根の民家は築97年。石川さんは「由緒ある家を残したい」と話すが、老朽化に頭を抱えている。
 1945年4月1日、読谷村の海岸から上陸した米軍はすぐに住民を石川市の収容所に集めた。朝徳さんは妻と一緒に収容所に入ったという。
 当時11歳だった石川さんは収容所に来たばかりの朝徳さんを「元気がなかった。栄養失調だったんだろう」と思い起こす。1、2カ月たつと外にも出なくなった。縁側で柱にもたれかかって座り、日々を過ごした。
 石川さんの母久子さんが米軍の作業でもらって来た缶詰を分けると「いぇー いなぐんぐゎー、めーにち にへーど。わんが元気ないねー わんてぃーぬ かたみしらやー(姉さん、毎日ありがとう。私が元気になったら私の空手の型を見せるよ)」と言いながら肘を引き、柱を肘で突くしぐさを見せたという。
 現在、朝徳さんが最期を迎えた石川さん宅には、話を聞きつけた空手関係者が嘉手納や読谷から訪れる。2006年には少林寺流空手研究会のメンバー28人が東京から訪れたこともある。
 石川さんは幼いころ目にした朝徳さんの姿を思い、歴史が詰まる家を残したいと考えている。多くの人から「意見を聞きたい」と話した。