県立農林学校学徒、戦死10人名前判明 瀬名波さん調査 刻銘板設置へ


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東村内福地で戦死した学徒の名前を調査した瀬名波栄喜さん=那覇市天久の琉球新報社

 沖縄戦中の1945年4月28日、東村内福地で米軍との銃撃戦で死亡した県立農林学校の学徒10人の名前が6日までに判明した。昨年、東村宮城に建てられた「県立農林学校隊最期の碑」そばに、隊長を含めた11人の名を刻んだ刻銘板が設置される。内福地では配属将校の尚謙少尉を含めた同校の「肉迫攻撃隊」の11人が戦死したとされるが、学徒の名前ははっきりしていなかった。

沖縄戦から70年が経過してようやく、犠牲者数としての「11人」から、誰が亡くなったのかが明記されることになる。
 沖縄戦当時、農林学校の生徒だった名桜大学前学長の瀬名波栄喜さん(86)が、同窓会名簿、生存者の手記、新聞記事などの資料や遺族、他校の元学徒の聞き取りなどを通して10人の名前を明らかにした。

 農林鉄血勤皇隊には約170人の生徒が動員された。学徒たちは幾つかのグループに分かれて行動していたり、解散と合流を繰り返したりするなど動きが複雑なため、最終的に内福地まで行ったのが誰なのかも不明だったという。

 沖縄戦から70年が経過し、関係者は死去していたり、生存していても高齢のため記憶があいまいだったりして当時をたどるのは困難を極めた。瀬名波さんは「遺族はどこで亡くなったのかを知りたい。生き残った者の務めとして11人という数字ではなく、誰がここで亡くなったのかをはっきりさせたかった」と話した。

 名前が分かったことで、内福地で死亡した学徒の出身地、年齢も分かった。当初3年生で構成された「攻撃隊」だが、最後は1、2年生も参加しており、ほとんどが本島南部や宮古、八重山出身だった。瀬名波さんは「解散後、帰る場所がなくなり、攻撃隊と一緒に行動したのだろう」と推測する。

 刻銘される戦死学徒の氏名は次の10人。(敬称略)
 【3年生】安次嶺幸寿、大城喜孝、大城甚勝、我部操、狩俣栄【2年生】神谷仁助、島袋寿夫、新本弘吉【1年生】仲村禎信、平田清
(玉城江梨子)