「辺野古沖は交通拠点」 真栄平琉大教授、王府文書を確認


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琉球王朝時代の1835年に作成された公文書。「久志間切大浦村」「久志間切川田村」などと記されている

 新基地建設の準備が進む名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ内の海岸沿いで、琉球王朝時代の船舶用の重り「碇石(いかりいし)」が見つかった件で、琉球大学の真栄平房昭教授は2日までに、辺野古沖一帯が当時、輸送船の拠点だったことを裏付ける琉球王府の公文書を確認した。

 真栄平氏は「外部から持ち込まれたのではなく、その地域一帯が交通拠点だったことを物語る。沖縄の海上交通史を知る上で重要な手掛かりだ。他にも碇石がないか、一帯を丁寧に調べる必要がある」と話した。
 公文書は「道光15未年(ひつじどし)御手形写」で、薩摩への上納物などを取り扱う琉球王府の部署が1835年(道光15年)に作成した手形の写しだ。約200ページにわたり、船の大きさや積み荷量、船籍地、船頭名などが詳しく記されている。船籍地には「久志間切」の「大浦村」「川田村」「天仁屋村」などキャンプ・シュワブに近い村落が多くあり、当時、その一帯の海が海上の交通に頻繁に利用されていたことがうかがえる。
 真栄平氏はこの公文書を、那覇市が保管するマイクロフィルム資料のコピーから確認した。真栄平氏は「今回見つかった碇石は、公文書に書かれた辺野古間切の船の規模に合う大きさだ。小中規模の船の碇石研究は進んでいないので貴重だ」と指摘した。