prime

西原のグスクに沖縄戦の跡 當眞さん講演 津記武多グスクも案内


西原のグスクに沖縄戦の跡 當眞さん講演 津記武多グスクも案内 米軍作成による戦前の西原の等高線地形図
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 【西原】西原町のニシバル歴史の会(石垣盛康会長)が主催する歴史講演会「西原の戦争遺跡とグスク」が8月19日、町立図書館で行われた。グスク研究所を主宰し、グスクと戦跡考古学が専門の當眞嗣一さん(79)が講師となり、西原に点在する三つのグスクにどのような戦争遺跡があるのか、「軍事分野の専門ではないが」と前置きしつつ、グスクと戦争遺跡の踏査をして分かったことを解説した。
 戦後の土地開発で町の地形が大きく変わっており、現在の地図からは分かりづらいため、米軍が作成した当時の等高線地形図で説明した。米軍の地形図では日本軍の陣地壕がつくられた棚原グスク、幸地グスク、津記武多(チチンタ)グスクなどの立地や地形的特徴がよく分かる。それらの遺跡を踏査すると、中部の西海岸から上陸して南に向かう米軍を迎え撃つ、首里第二防衛線だったことが陣地壕の分布から分かるとした。
 例えば、津記武多グスクの頂上部には連絡通路のある観測壕があり、壁面に陥落日とみられる「MAY」(5月)と大きく刻んだ跡が残っていると解説された。米軍の記録によると1945年5月7日に陥落とある。これこそ「戦跡考古学の対象になる」と説明した。
 聴講した北村智史さん(30)は「観光ガイドと平和ガイドをやっていて、グスクと戦争遺跡が結びつかなかったが、とても勉強になった」と感想を述べた。
 講演会終了後に参加者から津記武多グスクに行ってみたいとの要望が出たため、講師の當眞さんが翌日案内することになった。8月20日はニシバル歴史の会のメンバーを中心に8人が参加し、険しい道なき道を登って津記武多グスク頂上部の壕を目指した。
 頂上部まで登りきるのに何度も足を滑らせそうになりながら、やっとの思いで頂上部にたどり着いた。そして米軍が刻み込んだと思われる「MAY5」(5月5日)の文字を壕の壁で確認した。「『子どもの日』にここで殺し合いがあったのか-」と参加者の誰かがつぶやいた。 (喜屋武幸弘通信員)
「MAY5」(5月5日)と米軍が刻んだとみられる陥落の記録=8月20日、西原町小波津
津記武多グスクを目指して山を登る参加者ら=8月20日、西原町小波津
米軍作成による戦前の西原の等高線地形図