戦後、沖縄に存在した「チャイナ部隊」 どんな活動? 伊江島にも存在 研究者ら報告


戦後、沖縄に存在した「チャイナ部隊」 どんな活動? 伊江島にも存在 研究者ら報告 戦後、沖縄に滞在したチャイナ部隊に関する研究を報告する明海大学の上地聡子さん=3日、伊江村農村環境改善センター
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 戦後沖縄チャイナ部隊研究会(森岡稔会長)は3日、戦後の伊江島に滞在し、米軍が使わなくなった爆弾や弾薬などの物資を運び出していた、中華民国(台湾)のチャイナ部隊(チャイナ・ボーセイ)についての研究報告会を、伊江村農村環境改善センターで開いた。

 森岡会長のほか、明海大学の上地聡子さん、成蹊大学アジア太平洋研究センター・ポストドクターの波照間陽さん、陽明交通大学の郭冠佑(グゥオグヮンヨウ)さん(台湾在住)、琉球大学の中村春菜准教授らが参加した。

 波照間さんによるとチャイナ部隊は、1947~49年に沖縄で米軍の余剰物資を回収し、中国本土へ搬出するために中華民国から派遣された。正式な軍隊ではなく、中華民国行政院物資供応局が編成し、那覇市の首里石嶺やうるま市の勝連半島に拠点を置いていた。

 部隊には一般の労働者のほか「Okinawa service command(沖縄島執行司令部)」所属の憲兵隊も含まれていた。琉球大の中村さんと陽明交通大の郭さんは「中国側も米側も、沖縄島執行司令部は軍事機関であると認識していた」と説明した。

 伊江村には48年5月25日から同年6月半ばまで、チャイナ部隊が滞在していた。当時、部隊は米国と締結した協定に基づき、伊江村の北海岸にある爆弾集積場(現在のリリーフィールド公園付近)から、米軍の爆弾などを搬出していたが、同年6月13日には火災が起きている。

 明海大の上地さんは、当時の村民の証言や火災原因について村と部隊の主張が対立していることに触れ「弾薬運搬作業という危険な作業が両者の緊張感を高めていたのではないか」と指摘した。

 報告会終了後、森岡会長は「このように皆さんの協力で研究が進み本当によかったと思う」とあいさつした。

 (金城大樹)