【糸満】「糸満の歴史と文化研究会」の57回目の研究発表が15日、糸満市のシャボン玉石けんくくる糸満で開催された。「糸満ハーレーが始まったのはいつか」をテーマに、会員の宮城英雄さん(75)が、糸満ハーレーを継承している字糸満(旧糸満町)の集落形成や人口、埋め立てによる地形変化、船の形状などの観点から考察。会員や市民約30人が聴講した。
糸満ハーレーの開始時期は諸説あるが、明治より前の文献がほとんどなく、市史や研究者の間では「時期不明」とされる。
宮城さんは文献などを基に、1400年ごろ以降、「根人腹」など13の門中が糸満に移住した経緯をたどった。琉球王府の「絵図郷村帳」に「いとまむ村」の表記が登場する1650年ごろには、約80世帯が住んでいたと推計。ハーレーの競漕(きょうそう)を担う西村、中村、新島の「三村」の名が記録に登場するのは、1800年ごろから埋め立てが進んだ後の1868年だと指摘した。
明治より前に糸満で多用された船は重く、2~3人乗りの松のマルキンニ(丸木舟、刳(くり)舟)だった。現在のサバニの形のハギブニが造られ始めたのは、市史によると1880年ごろという。
これらのことから、宮城さんは1800年以降に埋め立てによって人口が増え、操船技術も向上したことで、三村対抗の競漕が行われるようになったと考察。糸満ハーレーの開始時期は「不明」としつつ、明治より前のハーレーを考えた場合、現在とは形態が大きく異なるとの考えを示した。
1949年生まれの宮城さんは、10~12歳だった昭和30年代前半ごろの記憶から「サバニにエンジンを付けた四気筒ハラセーがあった。文化として、時代によって(出し物が)出たり消えたりする。(例年旧暦5月4日の)ユッカヌヒーは必ずこうだ、との断定は成り立たないのではないか」とも述べた。
会を主宰する金城善さん(71)は新聞記事などを基に、ハーレーの現在のプログラム中、戦前は御願バーレーとアガイスーブしかなく、観客を楽しませるため屋形船で那覇の芸妓(げいこ)が舞を披露していたことを紹介した。1946年には水泳競争なども行われていたという。
金城さんは、動物愛護団体から「虐待」との指摘があった「アヒラートゥエー(アヒル取り競争)」にも言及し、戦後のある時期に余興として入ってきたと推測。その上で「市民が自分のこととしてハーレーを考えてみることが必要ではないか」と述べた。 (岩切美穂)