高校生の頃、渡名喜島の砂浜に寝そべり見詰めた夜空。ペルセウス座流星群の幾筋もの光跡が空を彩った。那覇市内の日常では味わえない星の煌(きら)めきに世界の広さを実感し決意の背を押した。「もっと外の世界を、いろんなところを見てみたい」
世界への扉を開く機会を大学進学に据えた。憧れの東京に照準を合わせ、持ち前の文才を生かして、大学の文学部へ進んだ。
母と二人の妹を残して上京することに後ろ髪をひかれたが、思い切って勇躍の道を選んだ。「沖縄の居心地は良かった。でも自分の将来が見えなかった。沖縄で成功するイメージがわかず、離れたかった」。18歳の時だ。新聞奨学生として住み込みで働きながら勉学にいそしむ。上京当初は地方にはない人の多さに圧倒され、気後れもした。とはいえ、時代は多様性にこそ人間的価値を見いだす兆しが出つつあった。
時を経ると持ち前のアウトドア志向の本能もうずいた。アルバイトをしながら資金をつくって自転車で旅をした。「海外の人も含め楽器を持っている人が多くいて、言葉が通じなくても、音楽がすぐにいい雰囲気をつくる。それがいいなと思えた」。自らの故郷に思いをいたせば、三線があり、郷里の多様で重厚な文化の底力があった。「沖縄を誇らしく思えた」
27歳の時。いよいよ世界を見てやろうとアジアへ。上海、西安、チベット、ネパール、インドを放浪した。「旅は、嫌なことがないわけではないけど、いろんな人が助けてくれる。国が違うだけで生きている人はみんな同じですからね。泣いて笑って、ご飯を食べて、寝てと。人は親切で優しかった」
日本、そして世界の旅先での出会いが自らの血肉となり、成長させた。「受けた恩は違う人に」。旅先で教わったという信念は、今や沖縄を発信する生業(なりわい)へと転化した。三線教室をはじめ、講演、公演活動など多彩に活動領域を拡大中だ。また全国の高校生らの修学旅行を前にした事前学習では講師を務める。その数は「100校を超えた」と言う。
まだまだやりたいことがある。実は以前に巡ったアジア旅行は、インドで帰国せざるを得ず未完だ。「志半ばの世界旅行をやりとげる。そして世界のウチナーンチュと交流をし、沖縄を発信していきたい」。
旅を通して学んだ大切な信念がもう一つある。「笑顔です。相手がつられて笑うくらいの笑顔。嫌なことがあっても意地でも笑う。明るいところに人は集まりますから。ご縁は笑顔から」。万国津梁の精神は脈々と継がれる。(斉藤学)
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みやざと・ひでかつ 1972年8月生まれ。那覇市出身。那覇高校を経て國學院大学文学部中退。20代半ば三線片手に海外を放浪した。沖縄三線奏者であり、フリーペーパー編集発行人。沖縄イベントMCやラジオパーソナリティー、三線教室を主宰するなど、さままざな活動チャンネルで沖縄の魅力を発信する。