明治期にメキシコに移り住み、現地での差別から家族を守り抜いた-。そんな「移民」を祖父に持つ、米国在住の女性から本紙「あなたの特命取材班」に連絡があった。「日本に残る親族を捜し、自らのルーツを知りたい」と言う。分かっているのは、名前がウラ・カンタロウで福岡県糸島市出身ということくらい。渡航から110年の月日を超え、記者が痕跡をたどった。
女性はメキシコ北部コアウイラ州で生まれ、結婚を機に23歳で米国に移住したシルビア・ウラさん(62)。親族の話では、祖父は警備員として一家を養い、1938年に55歳で亡くなったという。ホセと名乗り、子ども12人には現地の人に多い名前を付けた。「アジア人への厳しい差別から家族を守るため」(ウラさん)。家庭では日本語を使わなかったと聞いたという。
日系移民の置かれた状況は過酷だったようだ。糸島新聞は、07年にメキシコの炭鉱に糸島から渡った約100人のうち、半数が不衛生な環境から死亡したと報じている。生き残った人は酒の密輸で生計を立てるなどしたという。
国際協力機構(JICA)の海外移住資料館(横浜市)にカンタロウについて尋ねると、日系人住所録に「浦勘太郎」、出身地として旧桜井村(糸島市志摩桜井)と記載されていた。現地で聞き込むが、メキシコ移住の歴史を知る人すらいない。時の壁を感じる。
住民たちのよりどころとされる桜井神社に行き着くと、外山(とやま)穰也(みのる)宮司(77)が「昔にカンタロウさんについて調べに来た人がいた。渡航記録らしき文書がある」と教えてくれた。
集めた情報を基に外務省外交史料館(東京)に問い合わせた。保存記録から、07年4月26日、勘太郎さんが「鉄道工夫」としてメキシコに渡ったことが裏付けられた。
記録にあった住所の登記簿をたどると、勘太郎さんは15年に父親とみられる彦三郎さんから土地を譲り受けていた。戦後、同じく浦姓の正記さんに引き継がれたことも判明した。
ただ、把握できたのはここまで。家屋跡にはビニールハウスが立ち並び、付近で聞き回っても詳細はつかめなかった。
以上のことを米国のウラさんに報告すると、「名前の漢字が分かっただけでもありがたい」と喜んだ。ウラさんは「祖父が忍耐で紡いだ物語を、孫の私が受け継いでいると再確認できた。いつか日本のファミリーに会いたい」と願った。(西日本新聞・水山真人)
<日本からの「移民」> 国際協力機構(JICA)の統計によると、海外移住者は戦前(1899~1941年)が約66万人、戦後(52~93年度)は約7万人。下関市立大の木村健二名誉教授(近代日本社会経済史)は「戦前は国内で人口が急増し、移住して高賃金を狙う人が目立った」と話す。戦前の渡航先はハワイや北米、中南米、アジアが多かった。戦前戦後を通じた福岡県からの移民は計約5万6千人で、広島、沖縄、熊本に続き、都道府県別で全国4位だった。
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