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宮崎と名護で「玉音」放送聞く 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(5) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦>


宮崎と名護で「玉音」放送聞く 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(5) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦> ポツダム宣言受諾を伝える1945年8月15日付ウルマ新報
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 1945年8月15日、不屈館館長、内村千尋さん(78)=那覇市=は母の瀬長フミさんらと共に宮崎県延岡市で敗戦の日を迎えます。千尋さんのお便りは次のようにつづります。

 《延岡空襲から1カ月半ほどたった8月15日正午、天皇陛下の重大放送があるから聞くように知らされました。何事だろうと、ラジオのある家の庭先に近所の人たち大勢が集まって、その放送を聞きました。

 泣いている人もいましたが、ほとんど声もなく、しばらく沈黙が続きました。嬉しいのか悲しいのか解らないというのが本当の気持ちだったのではないでしょうか。》

 父の亀次郎さんは羽地村(現名護市)真喜屋にあった米軍野戦病院のベッドの上で放送を聞きました。「瀬長亀次郎回想録」は「『終わったか』というのがその時の実感だった」と記しています。亀次郎さんは栄養失調と悪質な歯槽膿漏(のうろう)に苦しみ、病院に収容されたのです。母は栄養失調で亡くなりました。

 亀次郎さんが記者をしていた「沖縄朝日新聞」は40年12月、「琉球新報」「沖縄日報」と統合して「沖縄新報」になります。米軍上陸後の45年5月25日まで発刊を続けました。

 それから約2カ月後の7月26日、米軍の機関紙として「ウルマ新報」(現在の琉球新報)が石川で創刊されます。8月15日付の紙面では「渇望の平和愈々到来!! 日本条件を受理す」の見出しで、日本のポツダム宣言受諾を報じました。