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ネットの健全性 行政が「偽情報」選別も 表現規制 悪用の可能性<山田健太のメディア時評>


ネットの健全性 行政が「偽情報」選別も 表現規制 悪用の可能性<山田健太のメディア時評> 「デジタル健全化検討会」が示した「とりまとめ骨子(案)」
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 6月10日、総務省の有識者会議がインターネット上の嘘情報への対応策をまとめた。すでに様々なネットルールが生まれ、自主的な通報制度や対応策も取られてきてはいるものの、最近ではなりすまし広告による詐欺被害も話題になるなど、新たな包括的施策が求められている。そこで総務省では、昨23年の11月に同会議を発足させ、急ピッチでデジタル空間のルール作りを進めてきたわけだ。

 一般に、偽・誤情報対策に関する有識者会議と呼ばれることが多い「デジタル空間の情報流通の健全性確保に関する有識者検討会」であるが、デジタル健全化検討会と呼ぶのが相応しかろう。実はこの〈偽・誤情報対策〉と〈健全化〉の違いがこの問題を考えるときの肝である。

健全な情報空間

 今回示された「取りまとめ骨子(案)」の焦点は、SNSや検索サービスなどのプラットフォーム(PF)事業者に対する「責務」である。具体的な中身を、少し前に提示された論点整理からみていくことにしたい(「デジタル空間における情報流通の健全性確保の在り方に関する検討会 ワーキンググループにおけるこれまでの検討状況」5月30日、検討会ワーキンググループ事務局)。

 検討会では、「情報流通の健全性をめぐる課題一般」と「広告収入を基盤としたビジネスモデルに起因する課題」に大別して議論を進めているが、ここではPFの「コンテンツモデレーション」(投稿の監視や削除など)に絞って考えてみよう。

 そもそも、民産学官(これに報も加わることになると思われる)が協力・連携し、社会の情報の担い手が全て一緒になって、デジタル空間における「情報流通の健全性」を実現するという枠組み自体が居心地がよくない。猥雑(わいざつ)だったり行儀が悪い情報(やその発信者)も含めての、「豊かな情報空間」が求められるのであって、決して行儀のよさが求められているわけではなかろう。

 現在のデジタル情報空間の中での「偽情報の氾濫」が好ましいものではないとの前提意識は共有するものの、だからといってそれをマルチステークホルダー全体で官民一緒になって浄化しようというのはいかがなものか。「健全な民主主義の発展」というような理念として掲げるのはまだしも、政府審議会等で具体的に表現内容の健全さを求めることはやめた方がよかろう。

官製自主規制

 現在すでにインターネット上の情報流通に関しては、「官製自主規制」ともいうべき政府(警察庁、総務省、法務省など)と民間団体の協力体制のもとでの「共同規制」が幅広く行われている。今回の規制もこうした既存組織の延長線上が想定されるとともに、現在は民間ベースのファクトチェック制度なども取り込む考えとみられる。自主規制の成功の秘訣は、その領域の網羅性や拘束性(強制力)があることや、その運営団体の独立性や正統性、透明性が担保されていることであるが、前者の二つを満たすために行政の関与度合いを強めるほどに、後者の3条件は危うくなるという矛盾した関係性があるだけに、相当に難しい綱引きが必要になる。

 論点整理ではたとえば、災害発生時等に政府がPF上の情報流通に介入することを想定している。前例としてはすでに3・11があるが、当時発出された総務省総合通信基盤局「東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する電気通信事業者関係団体に対する要請」(11年4月6日付)はどう総括したのだろうか。

 さらに当時は、総務省「東北地方太平洋地震による災害に係る情報提供に関する日本放送協会及び社団法人日本民間放送連盟に対する要請」(11年4月1日付)も出されており(山田健太『3・11とメディア』トランスビュー)、政府は、インターネット情報に限らず社会に流通する情報すべてを対象とした、全面的な情報コントロールを企図することになるだろう。ちなみに当該要請は、微に入り細に入りの内容であって、いわば政府の認めた情報以外を「偽情報」と色分けする可能性を否定できないものであることを、改めて確認しておく必要がある。

 そもそも日本は、表現の自由の保障の中でも、情報流通過程の制限に関しては極めて鷹揚(おうよう)で、今日においてすら幅広な流通制限が許容されている。しかもその多くは内容中立性規制とされる外形的な判断基準(時・所・方法)に基づくものであるが、その実は厳しい内容規制そのものである場合も少なくない。それにさらに「緊急事態」を理由として包括的でかつ、行政主導での強力で一律的直截的な規制が行われることは、単に言論統制の危険があるという抽象的な危険性にとどまらないものである。

モデレーション

 モデレーション手法として規制対象の限定化が議論されているが、どこまでいってもグレーゾーンが残るのが表現規制の難しいところである。さらに90年代の人権侵害規制の議論(国内人権救済機構の設置法案など)のなかで、主たる人権侵害事例として政治家へのつきまとい事例や名誉毀損事例が挙げられた経緯を考えると(山田健太『言論の自由』ミネルヴァ書房)、実際の法制化やその後の運用段階で「悪用」される可能性を排除できない。

 また、コロナワクチンの例にみられるとおり、ワクチンの副反応に言及しただけで動画配信サイトからの一方的な削除やアカウント凍結などの厳しい自主規制が行われたことからも、政府方針と異なる情報が偽情報と認定される可能性は極めて高い。戦時慰安婦などの歴史的記述ですら、似たような事案が報告されている。論点整理でも引き続き議論が必要とされている「違法でない偽・誤情報」に対する取扱いこそが、こうした問題解決のカギになりそうだ。

 一方で、今夏に公表される予定の検討会のとりまとめは、諸外国の実情を含め現状の分析とともに、幅広く関係団体のヒアリングも実施し、ネット秩序の構築を考えるうえでの現時点での貴重な素材になりえよう。モデレーション基準の策定・公表や窓口の整備、一定期間内での判断・通知など、今後の制度設計における選択肢も示している。法的義務か自主規制かは横に置いたとしても、PFに措置の実施を求める場合に、人員や予算措置などの対応態勢も含めた社会的監視がその実効性に直結すると思われ、通信の秘密を含む表現の自由を保障しつつ、PFに相応の社会的責任を求めることは必須だ。

 ネット上の自由を守りつつ、どうやってフェイク情報を排除して人権を守り民主主義を維持するのかの課題を、皆で議論して前に進めていきたい。

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。