<金口木舌>地域の慰霊碑


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 多くの遺体が横たわる糸満市摩文仁を逃げた。自決用に手りゅう弾を持っていたが「故郷に帰りたい」と生き抜いた。防衛隊に動員された宜野湾市喜友名の當山誠篤さん(93)の沖縄戦体験だ

▼喜友名出身の戦没者を刻銘した「友魂の塔」が今年、建て替えられた。ひび割れが生じるなど老朽化が進んでいた。遺族の希望で追加刻銘があり、192人の名前が刻まれた塔の前で6月に慰霊祭があった。當山さんも夫婦で参加した
▼建て替えの背景には戦争体験者の高齢化もある。慰霊の日に糸満市の平和の礎まで足を伸ばす体験者が減っているという。高齢者にとって炎天下、バスなどでの長距離移動は負担が大きい
▼同じ理由で慰霊碑の建設を読谷村に要望したのは同村の牧原自治会だ。牧原集落があった土地は終戦直後、米軍に接収されて現在も嘉手納基地内にある。出身者は周辺の集落で暮らしており、慰霊碑もない
▼自治会は今年、牧原公民館で初めて慰霊祭を開いた。與古田松吉会長は「戦争も米軍基地の問題も国が引き起こしている。地域だけの話ではない。体験者が生きているうちに慰霊碑を造ってほしい」と訴える
▼鉄の暴風、「集団自決」(強制集団死)、飢餓、マラリア。沖縄戦体験は地域により違う。地域の慰霊碑や慰霊祭は、歴史の教訓を身近な場所で次世代へ引き継ぐ重い役割を負っている。