「このインスペクター(監督)の下では一緒に仕事ができないので代えてくれ」。米軍キャンプ・ハンセン建設現場の総責任者を務めていた国場幸一郎さんが、監督を排除するよう要求した
▼米施政下の1960年代、現場で米軍の監督は強大な権限を持っていた。しかし人種差別的な言動もあり、技術者たちと対立することもあったという。米軍は意外にも排除要求を受け入れた
▼だが米軍も現場から排除を求める技術者の名簿を出し、国場さんの名前も載っていた。ウチナーンチュの立場から意見した国場さんも現場を去った。著書「私の沖縄と私の夢」にある
▼国場組会長を務めた国場さんは建設、観光業界の発展を支え、沖縄の経済的自立を模索した。稲嶺恵一元知事は本紙に寄せた談話で「夢を掲げすぎて失敗もあった」としつつ、沖縄電力の単独民営化に関わったことなどの功績をたたえた
▼国場さんが親しかった稲嶺さんを担いだ98年の知事選。相手は現職の大田昌秀氏。国場さんと大田さんは早稲田大の同窓で、普段から酒を酌み交わす間柄だった。国場さんにとって「心の底に消えない存在」だという
▼全基地撤去を展望した大田さんとは政治的立場が対極とも思えるが、ウチナーンチュとして沖縄のための将来を模索した生き方は共通する。著書には「未来の沖縄の姿を夢見ることは一緒」とある。合掌。