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母の背をたたき、何度も叫ぶ「アンマー」 沖縄戦、艦砲射撃で母失った川平さん「何があっても戦はだめ」


母の背をたたき、何度も叫ぶ「アンマー」 沖縄戦、艦砲射撃で母失った川平さん「何があっても戦はだめ」 沖縄戦当時の記憶をたどる川平勇さん。艦砲射撃で母を亡くした=5月、南城市
この記事を書いた人 Avatar photo 共同通信社

 母の背をたたき、何度も「アンマー(お母さん)」と叫んだ―。米軍との地上戦となった1945年の沖縄戦。劣勢の日本軍が司令部からの撤退後に移動し、多くの住民が戦火に巻き込まれた本島南部で、当時5歳だった川平勇さん(84)は母を失った。「母が盾になり、僕は今も生きている」。感謝と自責の念が入り交じる。

 惨劇から80年近く。防衛力強化を狙う政府の姿に、危機感を抱く。「何があっても戦はだめだ」と語気を強めた。

 当時の記憶は断片的だ。戦闘が激化した45年6月ごろ、自宅が燃え、母と一緒に南部を転々とした。帯で結んだ川平さんを背負いながら母が逃げていると、正面から艦砲射撃に遭い、息子をかばうようにして亡くなった。

 うつぶせに倒れた母に何度も呼びかけたが、反応はなかった。泣き叫んでいたとき、米兵が母の身体に結わえられた帯を切り、川平さんを大きなトラックの荷台に放り投げた。その後の記憶はない。それでも「母を呼び続けたあの瞬間だけは、鮮明に覚えている」。

 4人きょうだいの末っ子で、他の3人は熊本県に疎開しており無事だった。戦後、引き揚げてきた5歳上の次男と、かやぶき屋根の小屋で暮らした。ランプに使う灯油や食料を買う余裕もなく、明かりのついた家を見ると涙がこぼれた。

 父は日本軍司令部のあった那覇市首里のあたりで戦死したと後に聞いた。両親の写真や資料は一切残っておらず「顔を思い出すこともできない」。母は遺骨が見つからず、被弾して亡くなった糸満市真壁の近くの石を、代わりに墓にしまった。

 沖縄戦の組織的戦闘終結から79年が経過し「台湾有事」といった言葉を多く目にする。先島諸島の住民らの避難計画策定も進む現状に「戦の準備をしている。生きている間、本当に大丈夫だろうか」と不安を隠さない。

 南城市にある今の自宅の庭ではチョウを育て、草花に囲まれて暮らす川平さん。「慰霊の日が何のためにあるか、若い人たちは考えてほしい」と話し、こう願った。「チョウや鳥が飛び交い、子どもたちの遊ぶ声がこれからも聞こえていて」

(共同通信)