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首里劇場、さまざまな変遷たどりついに終幕 沖縄芝居、選挙演説、成人映画… 戦後の民衆史刻む<沖縄DEEP探る>


首里劇場、さまざまな変遷たどりついに終幕 沖縄芝居、選挙演説、成人映画… 戦後の民衆史刻む<沖縄DEEP探る> 1950年10月ごろの開館間もない首里劇場(那覇市歴史博物館提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 沖縄県内で現存する最古の映画館建造物で、最後の木造劇場である首里劇場(那覇市首里大中町)の解体工事が16日から始まる。沖縄芝居の公演、地域の施設、成人映画の上映、そして名画座―。さまざまな変遷をたどった首里劇場の歴史を証言と写真で振り返る。

役者育てる

 首里劇場は1950年に真栄城喜福さんが創業した。一般映画の上映や沖縄芝居などの公演などでも親しまれた。「大伸座(たいしんざ)」の一員として、1950年のこけら落としに出演した八木政男さん(92)が振り返った。「立派過ぎて(大道具を舞台の床に固定する)かすがいを打てなかった。重りで固定したよ」「首里のお客さんは言うことが厳しく、鍛えられた」

八木政男さんが出演した「大伸座」による首里劇場のこけら落とし公演の新聞広告(1950年9月21日付うるま新報)

 平良進さん(88)は20代の頃に「翁長小次郎一座」、その後「ときわ座」の一員として出演した。翁長座は「今帰仁由来記」という芝居で、ハブを使う演出が好評を博した。ハブが客席に向かい、観客を慌てさせることもあったという。平良さんはにぎやかだった当時に思いをはせ、「いい劇場にはいいお客さんが来る。私を役者として育ててくれた劇場だ」と解体を惜しんだ。

多目的施設

 当時、劇場に訪れる役者たちを見ていたのは大中町自治会長の與儀毅さん(75)だ。「座長さんが2階のベランダから客入りを見ていたのを覚えている」。子どもだった與儀さんにとって、どちらかと言えば「笛吹童子」などの映画の上映が楽しみだった。首里高時代は学芸会で舞台に立ち、英語劇を披露したという。「客席は暗くて何も見えなかったけれど、広かったことは覚えている」。現在の首里城が復元される前にあった琉球大学の行事や、選挙の立会演説会などもあり、「地域の多目的施設だった」と懐かしんだ。

1951年ごろに開かれた琉球大学の開学記念関連行事の様子(那覇市歴史博物館提供)

 やがて時代の流れと共に映画や芝居を見る人が減った。成人映画を興行するようになってからは、劇場を見る地域の目が変わった。劇場前は通学路。子育て中だった與儀さんは、成人映画の作品の音が漏れることに困った。古いままの換気装置が周辺の住宅に悪臭をまき散らすこともあったという。「迷惑に思い、我慢してきた住民もいる」と明かす。解体後の敷地には「地域の人が交流できる施設ができてほしい」と望んでいる。

ライブ会場にも

 一方、劇場をライブのステージとして活用する動きも出てくる。2007年に沖縄を舞台とした映画「マクガフィン」の上映会とライブがあった。映画に出演し、ライブで登壇した俳優の洞口依子さんは「誰もいない2階席に誰かいるような、劇場自体が喜んでいた感じがした」と振り返った。

 2021年には3代目館長の金城政則さんの希望で名画座として再始動した。だがその1年後に金城さんが亡くなり、休館になってしまい、今回の解体までに至る。

首里劇場でライブを行う奈須重樹さん=2016年4月29日

 劇場で2回ライブをした「やちむん刺激茄子」の奈須重樹さん(59)は、首里劇場をテーマにした「まるで名画座のように」でこう歌う。「もう二度と会えない人に/ここに来たら会えそうな気がしてる」

 さまざまな記憶が刻まれた劇場も終幕となる。その姿が見られるのもあとわずかだ。

 (田吹遥子、伊佐尚記)


施設内ぐるり見渡そう 池宮商会が3D化、公開

 3Dで首里劇場は不滅に―。印刷業の池宮商会(那覇市、池宮城拓社長)は、沖縄の古い建物を3D(3次元)で記録し、インターネットで公開している。

 池宮城社長は、3Dの模型データを作成するサービス「Matterport」(マーターポート)を使用。首里劇場の建物内の300地点を4Kカメラで360度撮影した映像を組み合わせた。老朽化で一般客が立ち入れなかった2階席や、映写室まで“入る”ことができる。俯瞰(ふかん)して見取り図のように見ることもできる。

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