prime

【特集】さよなら東京「国立劇場」 57年前のこけら落としにも出演の玉城節子「憧れの聖地」


【特集】さよなら東京「国立劇場」 57年前のこけら落としにも出演の玉城節子「憧れの聖地」 初代国立劇場さよなら特別公演で「谷茶前」を踊る玉城節子(右)と金城美枝子=10月22日
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1966年に開場した東京都千代田区の国立劇場が、建て替えに伴い10月末で57年の歴史に幕を下ろした。同劇場はこけら落とし公演で琉球芸能を上演するなど、琉球芸能を日本に発信する拠点の一つだった。10月のさよなら公演の様子と、こけら落とし時の第1回琉球芸能公演にも出演した玉城流翔節会の玉城節子家元、同公演をプロデュースした西角井正大(にしつのいまさひろ)の話を通して、国立劇場と琉球芸能の関係を振り返る。(敬称略)

10月末で閉場する国立劇場の写真を撮る人たち=10月29日午後、東京都千代田区

 千代田区にある国立劇場の建て替えに伴う、さよなら特別公演「組踊と琉球舞踊」(日本芸術文化振興会主催)が10月22日、同劇場であった。「名手による至高の技芸」と銘打ち、人間国宝や県内屈指の演者が最高峰の沖縄芸能を披露した。

 組踊の「二童敵討」は亡き父の恨みを晴らす兄弟の物語。あまおへ役の重鎮・親泊と気鋭の中堅や若手が共演し、見応えのある舞台に仕上げた。

女踊「諸屯」を舞う宮城幸子=10月22日

 公演は午前と午後の2部で構成。午前の部は親泊興照、玉城節子、玉城秀子らの「かぎやで風」が幕開けを飾り、古典女踊の「稲まづん」や雑踊の「川平節」と続いた。

 古典舞踊の中でも最も難曲とされる女踊「諸屯」は、宮城幸子が年季の入った技芸で繊細な女性の内面を舞に込めた。

 組踊は、国立劇場では1967年以来56年ぶりとなる「女物狂」が公演された。人さらいの盗人(玉城盛義)と連れ去られた子の掛け合い、母の悲しみなど、悲喜こもごもに織り込まれ、重層的な歌舞劇が舞台を彩った。

組踊「女物狂」の盗人(玉城盛義)が子を連れ去る場面=10月22日、東京都千代田区の国立劇場

 午後の部は古典女踊「女こてい節」に始まり、雑踊「浜千鳥」、節子と金城美枝子による「谷茶前」と続いた。女踊「諸屯」は志田房子が思慕の念を機微に折り込み、舞った。

 地謡も歌三線の西江喜春、比嘉康春、太鼓の比嘉聰ら重鎮と力のある若手がそろい、至芸が次世代へ受け継がれていくことを印象づけた。

 (斎藤学)


57年前も出演 玉城節子に聞く 「憧れの聖地」新劇場も期待

 玉城流翔節会家元の玉城節子は、57年前に上演された国立劇場こけら落とし時の第1回琉球芸能公演と、10月22日のさよなら特別公演に出演した。玉城は「国立劇場は実演家にとって憧れの聖地みたいな場所。ここで踊れたことは舞踊家としてこの上ない喜びだ」と振り返り、新しい国立劇場でも踊ることに期待を寄せた。

 第1回琉球芸能公演に起用されたのは25歳の頃だ。1月26~29日計5回の舞台に出演した。「花売の縁」の鶴松、「執心鐘入」の小僧役などを演じた。

国立劇場のこけら落とし公演の頃に撮影した記録映画で組踊「花売の縁」の鶴松を演じた玉城節子(右)。師匠の初代玉城盛義は森川の子役を演じた(提供)

 「舞台の大きさに圧倒された。沖縄の芸能を研究している人たちにどう評価されるのかという緊張もあって、とにかくミスなく踊ろうと努めた」

 足袋は全演目ごとに履き替えたという。「沖縄の芸能は素晴らしいと知ってもらうため、自分でできることは何でもやった」

国立劇場の第1回琉球芸能公演で上演された組踊「女物狂」(1967年1月28日付の琉球新報紙面より)

 さよなら特別公演には、当時のこけら落とし公演に出演した中から宮城幸子、志田房子、金城美枝子も出演した。玉城は金城と「谷茶前」を踊った。開場から57年、自身の立場も変わり、琉球芸能も広く認知されている。「全体を見る、別の緊張感もあるが、観客の温かい雰囲気が伝わる」と変化を感じている。

 「一度立てただけでもよかったが、その後も何度か立てる機会があって最後まで務められたことは感無量だ」。新たな国立劇場を楽しみにしている。

 (田吹遥子)


組踊と琉舞を組み合わせ 沖縄芸能復興に使命感

 1967年1月26~29日には国立劇場のこけら落とし公演の一環として、同劇場は第1回琉球芸能公演「琉球舞踊 御冠船踊(おかんせんおどり)」を開催した。当時の公演のプロデューサーを務めた西角井正大に話を聞いた。

第1回琉球芸能公演プロデューサー
西角井正大

当時は、国の文化財保護委員会の職員だった。琉球芸能公演の話があって、自分から手を挙げて担当した。学生の頃から琉球芸能が好きだったのもあるが、沖縄戦による沖縄の人の苦しみに胸が締め付けられる思いがあった。沖縄の復興のためという使命感で取り組んだ。

 沖縄の芸能に精通していた仲井真元楷さんが訪れて「沖縄の本土復帰に向けて、沖縄の芸能復興から始めたい」と強い思いを託してくれた。

 当時、東京では戦時中に沖縄から本土に疎開した人たちが琉球舞踊を披露することはあったが、沖縄の実演家が少なかったため、組踊が披露される機会はほとんどなかった。組踊と琉球舞踊を合わせて「御冠船踊」としてプログラムを組んだ。

 前日に雪の中で沖縄からの芸能団をお迎えした。公演は舞台正面の監事室から見ていたが、気持ちが沸き返ったのを覚えている。

 沖縄を研究する専門家をはじめ観客の反応もよかった。終演後に芸能団は静岡や大阪などへ向かった。ほっとした気持ちよりも、国立劇場でまた上演してほしいという思いだった。

 (談)