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国立劇場おきなわ20年 対談 眞境名正憲氏×稲嶺恵一氏 沖縄文化の聖地に


国立劇場おきなわ20年 対談 眞境名正憲氏×稲嶺恵一氏 沖縄文化の聖地に
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 国立劇場おきなわの開場から18日で20年になる。国指定重要無形文化財「組踊」の継承に向け、待望された国立劇場が開場するまでには多くの関係者の尽力があった。誘致運動から開場までの設立準備に、実演家として携わった眞境名由康組踊会会長の眞境名正憲氏と、経済界の代表として沖縄の芸能界と政財界をつないだ元県知事の稲嶺恵一氏に、誘致に至るまでの経緯や舞台裏、劇場への期待を語ってもらった。

(対談は2023年12月21日、琉球新報社で行った。司会は文化芸能班の島袋貞治と田吹遥子。対談の写真はジャン松元)

稲嶺恵一氏
(元県知事)

 いなみね・けいいち 1933年、中国大連市生まれ。慶應大卒。いすゞ自動車を経て琉球石油(現・りゅうせき)に入社し、86年にりゅうせき社長。沖縄経済同友会代表幹事、県経営者協会会長などを歴任し、98年の知事選で初当選し2期務めた。

眞境名正憲氏(眞境名由康組踊会会長)

眞境名正憲氏
(眞境名由康組踊会会長)

 まじきな・せいけん 1937年旧佐敷町(現南城市)生まれ。琉球大在学中に阿波連本啓氏、後に眞境名由康氏に師事し組踊と琉球舞踊を学ぶ。60年に大越百貨店(後の沖縄三越)に就職。86年に重要無形文化財「組踊」総合認定保持者。第7代伝統組踊保存会会長を務めた。

期成会発足

経済界と県民運動に 眞境名氏

―国立劇場の誘致運動はどのように始まったのか。

 眞境名正憲氏 復帰前は県の公的な劇場を要望した。1972年の沖縄の日本復帰時に組踊が国の重要無形文化財に指定されてからは、同じく国指定重要無形文化財で国立劇場がある歌舞伎や能や文楽と同様に、組踊を上演する国立劇場をつくってほしいという動きになった。

―当初の要請は芸能関係者のみだが、1991年には経済界の稲嶺さんに会長をお願いして「国立組踊劇場(仮称)誘致促進期成会」を発足させた。

 眞境名氏 芸能関係者だけだと、国への要請も慣れておらず進まない。県民運動に切り替えようとなった。全体の顔として稲嶺さん(当時りゅうせき社長、県経営者協会会長)が挙がった。りゅうせきで美術賞などを実施していて芸術に理解があるはずだと。専務を通してお願いした。

 稲嶺恵一氏 (声がかかったことに)本当に驚いた。会長就任の話があるまで組踊を見たことがない。調べてみると、沖縄の文化で大事にすべきだと思った。依頼に来られた組踊関係者が純粋で熱心だった。やれるだけやろうという気になった。

要請活動

全国公演 影響大きく 稲嶺氏

―期成会はどのように要請活動をしたのか。

 稲嶺氏 当初は(政府の)課長レベルでの要請だった。その調子では10年はかかると思い、当時県出身の衆院議員だった宮里松正さんに頼んだ。94年の陳情では、宮里先生に頼んで、私と大城立裕さん、宜保榮治郎さん、島袋光史さん、眞境名正憲さん(当時は瀬底正憲)の5人で、沖縄開発庁長官、文化庁長官など、各団体のトップクラスに会えた。その後、文化庁が全国6カ所で毎年組踊の公演をやってくれた。

「国立組踊劇場」建設の要請に赴いた(左から)眞境名正憲氏、稲嶺惠一氏、大城立裕氏、島袋光史氏、宜保榮治郎氏=1994年9月、文化庁

 眞境名氏 あれ(組踊公演の影響)は大きかった。

 稲嶺氏 全国開催となると、本格的にしないと格好もつかない。それで(演者も)急激に伸びていった。また、西銘順治知事のおかげで県立芸大ができたことも(演者に与えた影響は)大きい。

 決定的なポイントは96年、沖縄懇話会の当時の代表幹事である牛尾治朗さんや崎間晃さんの尽力もあり、1千万円の寄付を得て国立能楽堂で能と組踊の共演をやったことだ。「隅田川」、沖縄側は「女物狂」を上演し、チケットを政界、財界、役人みんなに配った。公演には当時の橋本龍太郎総理の腹心で内閣官房副長官の古川貞二郎さんが来た。僕は古川さんの隣にいて、組踊の解説をした。いろいろと話していたら、終わった後「稲嶺さん、これやろう」と古川さんが言って、その5日後に内閣の閣議で決定した。それで沖縄政策協議会の事項に入れたわけ。

―国立劇場の沖縄への誘致が決まった理由をどう考えるか。

 稲嶺氏 宮里さんを通じての陳情、能と組踊公演がポイント。ほかに、文化庁の河野愛さんという課長に一生懸命やっていただいたこともだ。それはきっと組踊関係者の熱意を感じて、沖縄のためにやろうと思ってくれたからだと思う。この方は早くに亡くなったが、神奈川県の実家まで沖縄の関係者で墓参りに行った。後で分かったことだが、その話も文化庁に伝わっていたらしい。

 あとは時流の運。当時は大田昌秀県政で政府と対立していた。だから、宮里さんに頼んだ。当時の日本のトップは心のある人だから、沖縄のためになんとかしたいという思いがあった。

開場時の思い

みんなが待ち望んだ 眞境名氏

―国立劇場おきなわが2004年1月18日に開場した時の思いは。

 眞境名氏 沖縄全体で作り上げたという感覚が強かった。期成会は皆さんからの浄財で活動していた。この時点ですでに県民運動ができている。みんなが持ち望んでいた劇場だったと思う。国立劇場が東京、大阪、そして沖縄にあることは大きい。

オープンしたばかりの国立劇場おきなわに入る観客ら=2004年1月23日
オープンしたばかりの国立劇場おきなわに入る観客ら=2004年1月23日

―稲嶺さんは当時、知事として記念式典などに出席した。

 稲嶺氏 種をまいて花が咲く時に立ち会える人は意外にいない。だから僕はその意味で運がいいなと思った。何も知らないところから、皆さんの熱意にほだされて一生懸命できる限り全力を尽くした。その結果、劇場のこけら落としを天皇陛下の隣で見ることができたことに感謝したい。

 決定のきっかけになった古川さんが、当時は内閣官房副長官を退官していたが(開場記念公演に)来てくれた。終了後に古川さん夫妻と島袋光史さんと一緒に食事をした。僕は恩返しができた気がしたし、島袋さんの本当にうれしそうな顔を忘れられない。大変印象的な場面だった。

―眞境名さんは開場記念公演の組踊「執心鐘入」にも出演された。初めて劇場に入った時の思いは。

 眞境名氏 県の構想の時からいろいろな委員会に出て、一日中、舞台はこうした方がいいとかやっていたから、楽屋はもう少しこうした方がいいな、というのも正直あった。舞台に上がった時、天皇皇后両陛下が来られているのが見えて、その前で演じた。

展望

大局的視野で運営を―稲嶺氏
お客さんへの還元を―眞境名氏

―開場から20年。今の思いや期待は。

 眞境名氏 20年の間に劇場のスタッフも入れ替わった。劇場が当たり前にあるという感覚になりがちだが、どういう経緯で開場に至ったのか劇場のスタッフにはよく勉強してほしい。種をまいた人の苦労があって今がある。みんなで作り上げたと誇りと共に運営してほしい。

開場10周年記念式典の祝賀公演で披露された「執心鐘入」=2014年1月18日、国立劇場おきなわ

 また、劇場の中に、沖縄の芸能の歴史に関する資料がある資料室のようなものが必要だと思う。

 沖縄の人みんながつくった劇場で、お客さんにどう還元するかも考えないといけない。どこどこ市町村の住民は無料にするという企画(劇場に足を運ぶ機会)もいいと思う。

 国立劇場の3階に「交流プラザ」がある。アジア太平洋のほか、海外からの芸能関係者との交流の場として、劇場側がもっと活用をしてほしい。

 稲嶺氏 私たちは「国立組踊劇場」を夢見ていたから「国立劇場おきなわ」という名称になった時は、実はかなりがっかりした。しかし、よく考えてみると「国立劇場おきなわ」なら、国際的な視野から“沖縄文化の聖地”にするべきだ。文化は他者を理解することでもある。最後は平和にもつながるものだ。

 世界のウチナーンチュは、ほかの都道府県と比べてもつながりが非常に強い。歴史的な経緯もあるけど、継承されているのは沖縄の文化だ。言語や社会が変わっても、沖縄が持つ文化を継承することで世界とつながっている、という事実は非常に大きい。

 劇場は、使い方によっては宝にもなるし、単なる古い建造物にもなりうる。沖縄文化を頭に描きながら、大局的な視野で運営していただきたい。“沖縄文化の聖地”として。それが、私の夢です。

 13日午後2時から同劇場では、開場20周年記念公演「祝いの宴」がある。チケットは完売。

用語
国立劇場

 国立の劇場は全国に6カ所あり、東京に国立劇場、国立演芸場、国立能楽堂、新国立劇場の4カ所、大阪に国立文楽劇場、沖縄に国立劇場おきなわがある。伝統芸能の保存および振興を図ることを目的とした特殊法人国立劇場(現・独立行政法人日本芸術文化振興会)の拠点となる劇場施設。東京の国立劇場、国立演芸場は建て替えのため、昨年10月で閉場した。