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もろさわようこさんインタビュー(下)<私と沖縄と女性史>わが身の足元掘る 己を発光体に闇を進む


もろさわようこさんインタビュー(下)<私と沖縄と女性史>わが身の足元掘る 己を発光体に闇を進む 故上井幸子さんが撮影した島尻ウヤガンの写真パネルを取り出すもろさわようこさん
この記事を書いた人 Avatar photo 米倉 外昭

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 もろさわようこさんは、3カ所の「歴史を拓(ひら)く家」を一般財団法人「志縁(しえん)の苑(その)」に発展的に改組して個人名義の不動産を全て寄贈し、志縁の人々にさらなる充実を託している。


 私は90歳を過ぎて、今生きているのは奇跡よ。このごろは医者にも行かず、あるがままに任せて生きています。戦後闘ってきた人たちはほとんど亡くなっていますから。生きて、憤っていられること自体がありがたいことです。憤りながら皆さんと関わりが持てる、「志縁」を生きられることに感謝しています。「歴史を拓(ひら)くはじめの家」は志縁でやってきました。「地縁血縁」は宿命。血、土地は選べないから。それにみんな縛られたんです。近代になって、志を持って生きられる志縁が展開したんです。

島尻ウヤガン

 1972年8月に初めて沖縄に来ました。沖縄は私にとって聖地。うかつには行けなかった。

 当時、ウーマンリブの解放像がどうしてももう一つ足りないと思っていた。日本の解放理論はいつも欧米の理論を下敷きにしている。私は自分の皮膚感覚の中で生きていこうと思っていたので、理論はうなずけても全面的にうなずけない。それで遍歴していました。その中で宮古島の島尻ウヤガン(祖神祭)に出会ったんです。75年ごろです。

 7日間、水だけで山にこもって神様になった時の彼女たちの霊性はなまなかじゃなかった。草の冠をかぶってよろめきながら下りてくる。今にも命絶えそうになっているのに、唄と語りと踊りで島立ての歴史を語る。そして倒れちゃう。失神という言葉は「神を失う」という実態があったと分かった。私はその霊的輝きに打たれ、これが「元始、女性は実に太陽であった」の太陽性だと、インスピレーションが来て、泣いてしまった。

 女は他者の痛みを自分の痛みとする愛に満ちた直感で真理と一体化するんだ。その一体化した女性たちを見た。他者の痛みを共有して語り伝え、祈ること。それが無文字社会における歴史伝承の原点。これがまっとうなコミュニケーションであり、私たちは疎外されていたと分かった。それで「愛にみちて歴史を拓き、心華やぐ自立を生きる」という「歴史を拓くはじめの家」のテーマができたんです。もろさわ女性史の原点はウヤガンの女性たちとの出会いでした。

 「愛にみちて」と言うけど、私はエゴイストですから他者の痛みを自分のものとできない。だけど、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のように「そういう者に私はなりたい」という願いは持っていいんじゃないか。「愛にみちたい」という願いは捨てず、馬の目先にニンジンを下げると馬車が動くのと一緒(笑)。

 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中に「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」とあるでしょ。自分を勘定に入れたらだめです。自分を勘定に入れないでその志を混じり気なしに生きれば、ささやかな実験だけど理想主義が実って、現在の「志縁の苑」に発展的に転化したと思っています。

ついのすみか

 高知の「よみがえりの家」は被差別部落の真ん中に造ってあるんです。沖縄には皆さんストレートに入るが、被差別部落には二の足を踏む人もいる。部落の人たちが「私たちが行くと去る人がいるはずです」と言っていましたが、その通りでした。沖縄は遠いので日常的に担わなくてもいいけど、部落はそうはいかないということです。その程度です、他者というのは。そんなに甘くはないし、錯綜(さくそう)しているけど、歴史を拓くというのは自分の足元の泉をどう掘るのかということ。わが身の足元の掘り方とは生き方です。

 同志の人たちは亡くなり、また年配になった。毎日毎日が不思議な感じがする。戦争の時に沖縄にいたら死んでいたし、男だったら死んでいたはずの私が、今まで生かされている。確かに「歴史を拓く家」の旗は振りましたが、実際に創り出してくださったのは参加者お一人お一人。それでこれだけのことができました。

 大変だからやるのが楽しい。楽なことは誰でもする。闇に向かって己を発光体にして突き進んで行くってとても生きがいじゃないかしら。まず自分が発光体になること。そして自分が楽しいこと。闇が深いと光の在りかが見えるのね。だから、闇の中で今の沖縄が光なんですよ、ご苦労だけど。私は何もできないけど、贖罪(しょくざい)意識だけですよ。自分ができることは沖縄を規範にして生きること。それをさせていただいています。ありがたいことです。

 沖縄に4カ月、信州(長野)に5カ月。その行き帰りに1〜2カ月、高知に滞在しています。高知ではついのすみかに老人施設の1室を借りてあります。どこかで倒れた時に、息があったら高知に送って、とみんなに言ってあります。高知が一番安心できる場所なんです。みんな差別に反対して闘ってきた人たちだから。痛みを味わい尽くしてきた人たちと共に生かさせていただいて光栄です。

 幸せな人生です。沖縄と出会い、部落と出会い、女たちと出会った。残念なことに男には出会わなかった(笑)。楽しい人生です。ありがたいことだと思っています。(聞き手・米倉外昭)