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巻物なら新たな発見 国王特定 謎埋める可能性<返ってきた御後絵・その意義と価値>下


巻物なら新たな発見 国王特定 謎埋める可能性<返ってきた御後絵・その意義と価値>下
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 この3月に米国より「尚育王御後絵」「尚敬王御後絵」「尚清王御後絵」と、国王不明の4枚の御後絵が発見された。うち「尚清王御後絵」と国王不明の2枚は鎌倉芳太郎の『沖縄文化の遺宝』に掲載されておらず、初めての公開となっている。特に明代の国王の色が確認できたことは大きな発見である。さらに、FBIがX(旧Twitter)で公開した画像から判断すると、国王不明の御後絵は鎌倉が言及していない御後絵の控えである可能性がある。

 国王不明の御後絵は3枚に分割され、中央の国王がまくりの状態で、左右の家臣団部分は額縁状になっている。FBIの写真には、まくりの国王部分の画像を広げるために職員の拳が写っている。拳の大きさを仮に10センチとした場合、この御後絵の縦の大きさが拳九つ分、約90センチになる。この大きさは御後絵の種類を考える上で重要な基準になる。

大小3種の巻物

 1925年10月2日、真境名安興が中城御殿(なかぐしくうどぅん)で御後絵を調査している。真境名たちの調査により、鎌倉が見た「軸物」と呼ばれるものの他に、御後絵に関する「巻物」が3種類あったことが分かっている。3種類の内訳は、高さが90・9センチの大の巻物が2種類、60・6センチの小の巻物が1種類。大の巻物は歴代国王の顔のみを描いたものが一つ、軸物の御後絵と同じように背景まで描かれたものが一つとなっていた。小の巻物は軸物の御後絵と同じように、背景まで描かれた歴代国王の肖像画をまとめたものになっていた。この大小の巻物類は、御後絵を描いた絵師たちの家譜に「扣大小(ひかえだいしょう)」と出てくる。

国王不明の御後絵。元は1点だったものが3分割されたとみられる(県提供)

壁画から軸物へ

 御後絵は元来、壁画であったが、1717年、火事などに備えて王府の命により軸物に改作されている。この改作により、明代の図像が引き継がれていったと考えられる。その図像は、国王の衣装などから「尚円王御後絵」から「尚豊王御後絵」までと、「尚貞王御後絵」から「尚育王御後絵」までの二つに分けることができる。もし、壁画から軸物への描き換えの際に、図像の改変があった場合、それ以前に描かれた「尚円王御後絵」から「尚豊王御後絵」と「尚貞王御後絵」は、同じような図像であることが十分にあり得るからである。

 御後絵の図像の特徴が保たれている背景には、その制作が王府に属する絵師たちによって公務として行われており、王府の意向によって図像が厳密に踏襲されたと考えられるからである。だからこそ、本作の軸物以外に御後絵の控えを3種類も制作させていたのではないだろうか。現在において美術作品はオリジナルに重点が置かれるが、時代ごとに作品の役割や評価は変わる。こうした時代ごとの価値観に向き合う必要があるだろう。

皮弁冠と烏紗帽

 話を国王不明の御後絵の大きさに戻そう。写真上の確認なので、今後、県の調査報告を待つ必要があるが、この御後絵の大きさが推定の通り約90センチ程度であれば、大の巻物である可能性は極めて高い。さらに、これがもし巻物であることが確認できれば、さらなる発見につながる。

 首里城復元やその調査研究などに尽力した真栄平房敬氏(1921~2015年)は戦中に、御後絵を含む中城御殿の宝物の避難に関わっており、大正から昭和初期の御後絵について詳細な証言を残している。真栄平氏は軸物の様子について述べているが、巻物については一切触れていない。真栄平氏が中城御殿に出入りしていた昭和初期、巻物の御後絵は、管理や保管場所も含めて存在していたかよく分かっていなかった。

 今回、国王不明の御後絵が巻物であった場合、これまで知られていなかった軸物とは異なる巻物の作品が出てきたことになる。さらに、その衣装に着目すると、新たな発見につながるだろう。

古写真などに記録はないが、掛け軸に「尚清様」と書かれた御後絵。第4代国王尚清の可能性がある(県提供)

 『遺宝』に掲載されている御後絵の写真は10枚となっている。その10枚は国王衣装などの図様の変化から明代のものと清代のものの二つに分けることができる。図像の変化は琉球における国王イメージの変化によるものだが、同時に冊封先である中国の王朝交代の影響もかなり大きい。中国の王朝の変化と国王衣装の変化との関係を実証的に確認するためには、図像が変化した尚貞王の先代、すなわち明清交代次期の国王「尚賢王御後絵」、「尚質王御後絵」の図像の確認が必要であった。しかし、これまで2人の図像を確認するすべがなかった。国王不明の御後絵が特定できた場合、その謎を埋める可能性がある。

 先述の通り、明代、冊封の際に贈られる皮弁冠は、琉球国王にとって特別なものであった。ところが、衣冠制度が異なる清代では皮弁冠などが贈られなくなるため、琉球は自前でつくるようになる。御後絵の国王はいずれも皮弁冠をかぶった姿で描かれている。琉球にとって皮弁冠は王権を示す重要な冠だったからだ。

 ところが、国王不明の御後絵の冠は烏紗帽となっている。清から皮弁冠が贈られなかったので、急きょ烏紗帽で対応したか、それとも冊封前の国王を描いたのかさまざまな仮説が立てられる。

 烏紗帽をかぶって描かれた人物がどのような国王で、そのことがどのような意味を持っていたのかを研究することは、琉球の歴史・文化を明らかにするとともに、その作品のもつ価値をより高めていくことになるだろう。

 文字数の都合により、画像の大きさや図像のみの言及となってしまったが、今回発見された御後絵は、時代を代表する絵師たちが心血を注いだ作品であり、色彩や描写など明らかにすべきことは多い。そのためにも、未来の創作につながる琉球絵画研究を進めていく必要があるだろう。


 平川 信幸(ひらかわ・のぶゆき) 1976年、沖縄市生まれ。別府大学文学研究科博士課程前期文化財学専攻修了。県立芸術大学博士課程後期修了、博士(芸術学)。専門は琉球・沖縄絵画史。県立博物館・美術館の立ち上げスタッフとして美術品、歴史資料の調査に関わる。2023年から同館主任学芸員。24年に著書「琉球国王の肖像画『御後絵』とその展開」を発表した。