これまで「組踊における話芸」という内容で「マルムン」に焦点を当て、その嚆矢(こうし)から発展までを数点の作品を例に考えてきた。そろそろまとめに入ろうかと思う。
組踊を創始した玉城朝薫は作品にはっきりとしたマルムンという役を登場させていない。しかし、「銘苅子」においては天女と銘苅子との問答を通して、銘苅子の屁(へ)理屈を天女にのませるという面白み(笑い)を表現している。「女物狂」における人盗人はその所作(「覚」が読み上げられるときの目を見開いたり、変な顔をしたりすること)が後世の作品に登場するマルムンに大きな影響を与えていることは間違いない。したがって朝薫はマルムンという役どころを設けはしなかったが、作品中に緊張と緩和をうまく盛り込み、組踊を創作したといえる。
朝薫の次に組踊を創作した田里朝直は、その作品の中にすべてマルムンと位置づけられるような役を登場させた。さらにその田里のマルムン役を分析すると、次のように理解することができる。
(1)マルムンは前段と後段をつなぐ役割を持つ。
(2)マルムンは主人公に重要な事柄を伝える者である。
(3)散文体を話すのは組踊の世界において(百姓などの)身分の低い者である。
(4)散文体での表現には「笑い」を含むものと含まないものとがある。
これにもう一つ加えると、「マルムンは組踊の中でも所作が写実的である」ということであろう。これは人の役以外に犬や猿といった動物の役についても言える。所作は話芸とは別の分野であるが、マルムンを考える際には必要な要素である。その後のマルムンは田里の作品における(1)~(4)の要素(+写実的な所作)を基本として創作がなされているといえる。
1800年代になると多くの組踊作品が創作されていく。それらの作品はほとんどが長編物であった。その中で作者たちは、いかに作品において効果的にマルムンを登場させるかを考えたようである。その結果として、「大川敵討」の泊は長いセリフを持ち、最終的にはあだ討ちに参加する、という新たなマルムン像を構築し、これまで数行のセリフしか持たなかったマルムンの概念を発展させた。これらは同時代の作品である「姉妹敵討」や「花売の縁」に少なからず影響を与えていると考えられる。作中で物語の前後の状況を伝えるには、なにも散文体の方が良い、ということはない。しかし、組踊は基本的に韻文体の詞章である。長いセリフであっても、散文体にすることで韻文体にはない柔らかなニュアンスや感動詞などの大げさな表現を取り入れることにつながり、結果として作品のクライマックスに期待を膨らませる効果をも話芸によって確立したといえよう。
(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)