組踊における話芸は、韻文のなかに散文を取り入れることで組踊における表現を豊かにしたことは言うまでもない。マルムンをその作品の成立年代順に見ていくと、ほんの少しの詞章から、1800年代に入ると膨大な長さの詞章へと深化し、最終的には散文を話す役を1人以上出して、それぞれの役どうしで掛け合いをしている。このような発展は組踊だけにとどまらず、新たな文芸にも影響を与えたと考える。
マルムンの影響を受けたのは「琉狂言」である。石垣島には黒島家の『琉狂言集』、新本家の『琉狂言集』がある。黒島家の方は1865(同治4)年と1872(同治11)年の祝いに上演されたもので、新本家のものは1866(同治5)年11月に書写されたものである。新本家の方は書写した理由は不明だが、黒島家と同じように何らかの祝儀があり、書写したものと思われる。
また、新本家にはその表紙しか残っていないが『酒呑狂言』と書かれた文書があり、そこに狂言の題目として「池の水」「から大名」他、3作の狂言が見える。先の黒島の『琉狂言集』には9作品、新本家の『琉狂言集』には3作品あるので、題目を合計すると少なくとも15作品が近世末期の石垣に伝わっていたということができる。年代不明であるが、石垣の登野城村に伝わる『狂言集』(桃原全能琉狂言集)には上下巻合わせて30作以上の琉狂言が伝わっている。
これらの琉狂言には本土の狂言から翻案されたものもあるが、詞章はすべて組踊のマルムンと同じ首里語の散文体で創作されている。八重山方言でない、という点が大いに組踊のマルムンと関係していると言えよう。
琉狂言はその創作された年代ははっきりしていないが、組踊のマルムンが影響しており、「大川敵討」の泊の長い散文体の詞章、同時代の「姉妹敵討」の上原・崎間の掛け合いから推察するに、1800年前後にはこのような散文体での文芸の創作ができるほど、琉球の文芸は成熟していたといえる。したがって琉狂言もこの時期(1800年)には創作されていた可能性を指摘したい。
石垣に残る琉狂言は、近世末期の記録から、石垣で演じられた可能性がある。例えば、仲尾次政隆の『配流日記』には1863(同治2)年の登野城番所の新築落成祝で踊りと「狂言」が演じられたことが記され、同じ年に大川村でも「御祝上」として「芝居」を仕組んだことが記されている。狂言はおそらく琉狂言で、芝居は琉狂言を含む舞踊や、もしかすると組踊の上演も考えなければならない。
このように組踊から生まれた話芸である散文体の詞章は、さらに他の文芸(琉狂言)へと広がりを見せていくのである。
(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)