組踊は現在、日本の重要無形文化財に指定されている。私たちは組踊を「古典芸能」として認識しているが、琉球王国時代に創作された組踊作品の上演に際して、「古典組踊」とは呼ばず、ただ「組踊○○」と呼称しているだけだ。だが、間違いなく組踊は古典芸能である。したがって現代において創作された組踊については「新作組踊」や「創作組踊」の呼称を用いてこれを区別している。
では、「組踊」が古典として認識されるのはいつ頃からか。池宮正治は、王国時代に創作された組踊について「古典」という呼称は用いないものの、明治期に創作されたであろう作品については「新作の組踊り、あるいはテキストが伝えられていないもの」として「北山復讐之巻」「微行之巻」「浦千鳥」「花見之縁」「梅露之縁」を挙げている。池宮はテキスト(台本)が伝えられていないのでタイトルと当時の劇評などから総合的に考え、これら5作品を「新作の組踊り」として捉えた。
しかし、この池宮の論の裏側には、王国時代の組踊を「古典」と位置づけていることがわかる。近年は「新作組踊」も多く創作され、筆者も稚拙であるがその創作者の一人である。現在、100作品を超えるほど創作され、今後も増えていくことが確実である「新作組踊」に対して、今後、王国時代における創作作品について、舞踊が「琉球古典舞踊」と称されるように、一般に「古典組踊」と称されると筆者は考える。
そこで、基本的な疑問である王国時代の組踊はいつごろから「古典」と認識され、「組踊」=「古典組踊」とされたのかを資料を基に考えてみたい。
このような「古典」という概念が形成されるのは近代沖縄であることは間違いない。1879年、「廃琉置県」によって琉球王国が瓦解(がかい)して沖縄県となったあと、那覇に初めて登場した芝居小屋を中心に、壮士芝居や幻灯機、活動写真など多くの興行が本土から沖縄へとやってきた。例えば、当時の新聞を見てみると、蓄音機が沖縄の芝居小屋において初めて登場したのは1899(明治32)年のようだ。当時の「琉球新報」には次のように報じられた。
辻端道なる仲毛演劇場に於ては、今般東京より蓄音器を下し、之を芝居の道具につかひ、東京芸者の歌三味線、東京役者の仮声及び本県有名の歌並に同劇場役者の仮声を有の儘に活現せしめて、観客の好評を得るの計画をなし、此旨本紙上に広告したるより、首里那覇は申すに及ばず、各地方よりも態々見物に出掛ける者多く、殊に学校生徒に於ては、学術の参考にもとて続々見物するもの多く、開場以来昼夜の興行とも大入をなし(後略)
「仮声」とは「こわいろ」のことで、記事からは東京の役者や芸者のそのままの歌や声、沖縄の歌や沖縄の役者の声を聞くことができたようで、盛況だったことがわかる。
(鈴木耕太、県立芸大芸術文化研究所准教授)