掲げる夢はパリコレ出展
2009年にアパレルブランドを立ち上げた比嘉一成(ひが・いっせい)さん。立ち上げ当初は「COVER」というブランド名だったが、15年に「HIGA」に改名。自身の名字を用いたことで誇らしさを感じ、沖縄で最も多い名字とされる「比嘉」を掲げることで恥じることがないようにと、律する気持ちもあるそうだ。現在に至るまでのストーリー、そして展望を聞いた。
スタイリッシュながらリラックス感もあるアイテムを製作し、沖縄に関連したモチーフを多く取り入れている比嘉一成さん。今年の春夏コレクションは海を意識したリゾート・シティウエアを発表した。
「北谷のような海沿いのお店で家族でゆっくり過ごす時に着る服、というイメージでデザインしました」
琉球藍で染めたキャミソールドレス、八重山民具のクバオージ(クバの葉で作った扇)をモチーフにしたアロハシャツなどのアイテムを展開。沖縄のブランドでありつつ、いかにも沖縄という見せ方はしたくないとこだわる。
「世界各国の人に着てほしいので、老舗国際ブランドの水準に劣らないアイテム作りに取り組んでいます」と力を込める。自分で作った服の宣伝活動や販売は自ら行うスタイルを継続するために2016年、那覇市内にショップをオープン。18年以降は毎年12月、東京と沖縄で単独での展示会も開催している。
「合同展示会に出品してもなかなか買い付けてもらえず、小売店に販売を任せてもうまくいかなかった現実がありました。単独で展示会を開催するようになり、招待状の数が毎年増えています」とのこと。HIGAブランドのファンが着々と増えている。
ファッション好きは母の影響
東京の服飾専門学校でデザインを学んだ比嘉さんだが、ファッションへの興味はいつからあったのだろう。
「小4の時に蛍光色のパーカーを着たら、カッコいいと言われたことを覚えています。中高校生の時は古着が大好きで、国際通り周辺の古着屋に通っていました。洋服好きは母の影響ですよ」とのこと。既製服をリメークするなど、おしゃれなお母さまだという。
「子どものころは母のタンスを開け、着られる服がないかと探していました」とほほ笑む比嘉さん。ファッションに関するエピソードは事欠かないようだ。服飾デザインを学んだ後は東京のアパレルメーカーで営業や生産管理の職に就き、工場のある新潟で勤務するなど経験を積む。
「糸が服になるまでの製造現場にいた経験は財産になりました。ブランド服の商品化も携わりましたし、当時の経験が今も生きています」
東京コレクションに参加
日本の繊維産地ではない沖縄でのアパレル展開は、苦労が多かったという。
「2009年7月に本格的にスタートし、9月には六本木の合同展示会に出展しましたが来場者が少なく、大失敗した苦い経験が残ります。考えが甘かったと反省しながら、ミシンを踏んで1点ずつ作っていました」と比嘉さん。しかし、丁寧で上質な服作りが認められたのだろう。県内ショップでの取り扱いをきっかけに、東京やシンガポールのセレクトショップから引き合いがあり広がっていったという。また県内専門学校の講師としても活躍した。
「講師として定着しましたが、ブランドを大きくしたいと思い、辞めて勝負に出ました。憧れの日本最大のファッションショー『東京コレクション』に応募したんです」
見事に審査に通り15年秋、HIGAブランドの服が華やかに披露された。初めての沖縄発ブランドの参加だったという。その後は全てが好転したと語り、企業や学校のユニホームを手掛けるなど実績を広げている。
「ファッションは簡単ではないですがアイデアで乗り越えられます。後世に実績を伝えられるように精力的に動き、国際的に認められるブランドにします。目指すは『パリ・コレクション』への参加です」と目を輝かせた比嘉さん。沖縄発ブランドが世界に羽ばたく日が楽しみだ。
(饒波貴子)
(2024年2月22日付 週刊レキオ掲載)