沖縄の戦後史を語る上で欠かせない本、それが『沖縄・国際通り物語―「奇跡」と呼ばれた1マイル―』(1998年、ゆい出版刊)である。戦前、原野に建設された1本の道が沖縄屈指の繁華街となる過程を、膨大な資料と証言を基に追った労作だ。特に注目したいのは、国際通りの歴史を書いたこの本に、映画館や映画館経営者の話が頻繁に出てくること。映画館が戦後沖縄の街の成立に深く関係しているという事実を再認識させてくれる、何より重要な1冊なのだ。
著者の大濱聡(そう)さんは1948年生まれの73歳。10歳から18歳にかけての多感な年頃に、国際通りの近所で暮らした。
「安里三差路沿いの琉映本館の裏手に家がありました。石垣島から引っ越してきたのは国際通りの拡幅工事が終わって4年後のこと。立派な道路でした。映画館も多かったです」
中高生になると前述の「琉映本館」に加えて「国際琉映館」(旧アーニーパイル国際劇場)、「平和館」、「沖映本館」、「国映館」などに足しげく通った。入場料は昼飯代から捻出した。
「母から25セントもらったら5セントを残します。5日ためれば入場料の25セントになる」
前述の映画館は新作2本立て上映の封切館(一番館)。もっと映画を見たい聡少年は一計を案じた。
「二番館だと旧作が4本立てで見られます。日曜日ともなれば、朝11時から夕方6時まで、ずっと劇場にこもっていました」
特に思い出深い二番館は、現在の「国際通りのれん街」の裏手にあった「南映劇場」だという。
「あの頃の映画館としては珍しく上映時間表がありました。ただ問題も多くて、フィルムが古くて切れることが度々ありました」
当時の劇場で困ったのは客が吸うタバコの煙。今では考えられないが、場内喫煙が当たり前だった。
「煙で映画がちゃんと見られないときもありました。特にひどかったのが桜坂琉映館(現在の桜坂劇場)。大人たちは気軽に吸っていました」
他にも、中2でラジオ沖縄の「琉映ゴールデンタイム」に出演して映画チケットをもらった思い出や、台風で自宅が停電になる度に自家発電で営業する「琉映本館」に行ったことなど、興味深いお話をお聞きしたが、文字数が尽きた。次の機会にご紹介したい。
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)