私たちの映画興行調査は、映画研究家の故・山里将人先生より頂いた資料を基にしている。今回紹介する「与勝劇場」(旧・勝連村、現在のうるま市)とされる写真もその1枚だ。建物の上部に映画配給チェーン「沖映」のロゴが描かれていることから、「沖映」系列館であることが分かる。だが、撮影時期や具体的な場所は不明だ。
勝連に存在した劇場について確認できている一番古い資料は、1950年発行の雑誌「演劇と映画」5月号。それによると、48年7月11日に「勝連劇場」が平安名に創設されたようだ。経営者は前徳秀雄。この劇場の資料はこれだけで、後の調査とは関連性はない。
次に古い資料は、54年3月13日付琉球新報の「琉映貿」チェーン広告。その中に「与勝琉映館」が登場する。「与勝琉映館」は琉球政府の「興行場営業許可台帳」にも記載されており、56年5月28日に許可を受けている。住所は勝連村字平安名1612。経営者はО氏だ。続いての許可は58年9月12日。そして64年に申請されているが、備考欄に「66年事業失敗により…廃業届」と記されている。
さて、「~台帳」には、「与勝琉映館」と同じO氏経営の劇場がもう一つ登場する。63年9月20日申請の「与勝映画劇場」だ。また、66年8月9日付沖縄タイムスの「姿消す映画館」と題された記事によると「64年から66年7月までの間に与勝琉映、与勝劇場…が経営難から廃館」と、写真と同名の劇場が登場する。つまり「与勝」の名がつく劇場が2つあったということだ。
さらに、「琉球人名年鑑(要覧)」の63年版(前年12月発行)ではО氏の劇場として「第一与勝琉映館」と「与勝映画劇場」の2つが登場する。場所はどちらも勝連村平安名。しかし66年版では、どちらも記載が消えている。
以上を踏まえて考察してみる。О氏は54年までに「与勝琉映館」を開館。63年までに2つめの映画館「与勝映画劇場」を開館させる。その際「与勝琉映館」を「第一与勝琉映館」に改称。しかし65年にはどちらも閉館したのではないか。
冒頭で紹介した写真の「与勝劇場」は略称で、「与勝映画劇場」を撮影した可能性が高い。写真の建物に沖映マークがあるのも、O氏は経営する琉映貿系の「第一与勝琉映館」に加えて、新たに沖映系の映画館を設けたのだろう。いずれにせよ特定には至ってないので、さらなる情報を求めたい。
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)