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元映画看板職人・砂川正宏さん 風土に合った手法を考案 <沖縄まぼろし映画館>150


元映画看板職人・砂川正宏さん 風土に合った手法を考案 <沖縄まぼろし映画館>150 インタビューに笑顔で答える砂川正宏さん(當間早志撮影)
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 前回、「国映館」(現・ホテルコレクティブ敷地)隣にあった街角の映画看板(野立て)を紹介したところ、元映画看板職人の男性より連絡を頂いた。砂川正宏さんは1951年6月、石垣島生まれの70歳。

 「職人は映画看板とは言わない。大きい看板は『マネキ』。横長は『欄間(らんかん)』。縦長のものは『フンドシ』と呼ぶよ」

 幼い頃から絵が好きで、絵を学ぼうと高校を中退して那覇へ。だが絵の学校は無かったので、働いてためた千ドルとパスポートを持って東京のデザイン学校に進学した。

 「寮の近くに東京宣伝美術社という会社があってね。そこの職人が手掛ける映画看板が素晴らしくて」

 すっかりとりこになった砂川少年は、帰沖後18歳で「国映」に入社。アトリエは「沖縄東宝劇場」(現・国際通りのれん街の敷地にあった)の屋上に建てられた、雨漏りのするバラック小屋だった。

 「狭くて絵を描くのも一苦労。これじゃ駄目だと会社に直談判した」

 やがて「沖縄東宝劇場」が建て直されることになり、新たなアトリエが「若松国映館」(現ホテルリゾネックス那覇)内に作られた。

 「長さ約25メートル、幅は5メートルほど。大きな絵が描ける広さがあった」

 23歳でチーフに任命された砂川さんは、ますます仕事にまい進した。

 「絵は2週間ごとに描き変える。看板の設置も自分たちの役目。劇場以外に野立てもあって、台風が接近したらスタッフ総出で撤去」

 これらをこなすためには、従来の描き方を変えるしかない。そこで年休の度に上京して、「東京宣伝美術社」で職人たちの技を学んだ。泥絵の具を配合して50余りの色を作っておく。そしてキャラコと呼ばれる布地に水を掛けて、乾く前にはけで一気に描き上げる。

 「けれど、これだと沖縄の強い日差しに勝てない。さまざまな種類の絵の具を混ぜ合わせて、風土に合った手法を自分で編み出した」

 砂川さんはこの技術を、同業者に惜しみなく教えた。

 「会社はライバルでも、職人たちは仲が良いしね」

 砂川さんの布絵は那覇の劇場で掲示された後、ベニヤ板から剥がしてフィルムと共に地方の劇場へ旅立つ。それはやがて海を越えて石垣島と宮古島まで到達した。

 引退は、映画館から手描き看板が消えていった90年代後半。職人たちは画家や看板製作会社、沖縄芝居の大道具制作など、それぞれ活躍しつつ、今も交流を続けている。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)