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南座、金武劇場 あけぼの劇場 弁士の口上に涙流す <沖縄まぼろし映画館>148


南座、金武劇場 あけぼの劇場 弁士の口上に涙流す <沖縄まぼろし映画館>148 貴重な体験を語る仲嶺眞永さん(當間早志撮影)
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 前回の平良進さんの思い出話に「悪友」として登場した沖縄芝居役者・仲嶺眞永さんは1935年6月28日生まれの86歳。彼もまた、劇場と深い関わりがある。それは幼少期のサイパン島までさかのぼる。

 「南ガラパンという繁華街に家があって、道向かいに沖縄芝居専門の劇場『南座』がありました。そこで見た伊良波尹吉先生や渡嘉敷守良先生の名演に夢中になったんです」

 南座は木造2階建ての大きな建物で、物の本によれば、沖縄県人以外の他県人や先住民も多数来場するほどの人気だったという。

 やがて太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)。眞永さん家族は44年に本土へ疎開。生まれ故郷サイパンの玉砕と玉音放送を聴いたのは和歌山だった。

 終戦後、両親の故郷である沖縄へ。金武での新生活が始まったが、そこで引き付けられたのは、やはり劇場。現在の「うしなー社交街」にあった露天劇場「金武劇場」では無声映画に心奪われた。特に魅了されたのは大人気の活弁士、山田義認の口上。

 「山田弁士は台本にちょっと目を通したら、すぐ出来るんですよ。しゃべりもすごくて『鼠小僧(ねずみこぞう)』なんて、子どもでも涙ぐむぐらい」

 舞台への熱情は捨てがたく、ついに戦前からの名優・平安山英太郎率いる巴(ともえ)座への入団を決意する。

 「中学校卒業直前だったので、家族・親戚一同に猛反対されました」

 だが意志は変わらず、卒業証書をもらわないまま入団してしまう。巡業で各地の劇場を回るのだが、一週間の興行が終わると夜のうちに片付けて翌朝トラックに積んで出発。次の劇場に着いたら、すぐに芝居の準備…と目の回るような忙しさ。

 「舞台が始まると幕引き係。でも芝居に見とれてしまってね。拍子木が鳴るのも気づかず、怒鳴られて慌てて幕を閉めたこともありました(笑)」

 2、3カ月後に端役で初舞台、半年後にはセリフ付きの役を得るまでに。

 「『あけぼの劇場』(現・那覇市真和志支所の道向かい)で『いまじょう小』という怪談劇を演ったのだけど、恋人の亡きがらを掘り出した後に歌う歌を忘れてしまってね。思い出すまで、白骨を抱いて泣いたフリをしながら舞台の下手に行ったり上手に行ったり(笑)」などのハプニングもありつつ、やがて役者・舞踊家として大きく花開いた。

 一方で、下積み時代に手ほどきを受けた小道具作りの技を生かそうと「仲嶺芝居舞踊小道具店」を開設、沖縄芸能の発展を下支えした。

 眞永さんの劇場と芸能への強い思いは次世代にも引き継がれた。息子(伸吾)と孫(良盛)は琉球古典音楽奏者として活躍。最近では、美術家・山城知佳子の映像作品『リフレーミング』(2021年)にて三代そろっての出演を果たした。ちなみに奥さまは「石川沖映館」経営者の娘で、劇場をゆりかご代わりに育ったという。エンタメに縁がある一家なのだ。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)