前回に引き続き、沖縄芝居役者の平良進さん(86)の体験談。12歳で加入した「翁長小次郎一座」は、宮古島、石垣島の巡業を経て、ついに沖縄本島に上陸した。そこはたくさんの劇団がひしめく激戦区だった。
翁長座の特徴は演目の豊富さにあった。客が飽きないように4日ごとに新しい芝居を作るのだが、脚本が追いつかないために、こんな方法を取っていたという。
「(物語の)筋だけ立てておいて、それぞれ役を決めたら、後は役者が自分でセリフを考えていく」
ほぼ即興のスリルあふれる舞台。時にはハプニングも起きた。
「相手の役名を忘れてしまって、みんな適当に言うものだから役名がどんどん変わってね。それでその人はアドリブで『わん名ーや、いくちあん』(私の名前はいくつあるのだ)って(笑)」
実は進さん、役者を辞めて映画館で働いていたことがあるという。
「昔から絵を描くのが好きで、南映劇場(現在の国際通りのれん街裏手)では開館当時(55年)から映画の看板を描いていたよ」
後に一座に戻ったが、意外にも座長(翁長小次郎)は怒らなかった。それどころか―
「『お前は自分の顔を立ててくれた』と褒めてくれた。実は南映劇場の主と知り合いで、僕が普段から『翁長座長は立派な人だ』と話していたのを知っていたのだな(笑)」
再び、役者として舞台に立った進青年だったが、映画好きは相変わらずで、国際通りにある「大宝館」や「国映館」に足しげく通った。当時の沖縄芝居の役者たちはみな映画が好きだったという。
「集まったら、酒を飲んで映画の話。大宜見小太郎さんは『あのセリフは非常に良かったな』と言って参考にしていた。また、真喜志康忠さんは映画を芝居に取り入れるのが上手だった」
また、こんな出来事もあった。
「同じ芝居シーで悪友の仲嶺真永から『ある映画が倉庫に眠っているから、これでもうけようじゃないか』と誘われてね」
それは『新説・運玉義留 前編 地の巻』(54~56年ごろ)という沖縄で作られたトーキー(音声入り)映画。2人はフィルムと映写機を持って宮古島に乗り込み、「オグデン会館」(現在の宮古島市平良西里)で上映会を行った。
「上映したら、映写機が壊れていたのか音が出ない。慌てて映写室に飛び込んで『声が出てないぞ!』と言ったら、真永がマイクで喋りだしたわけ。芝居内容が分かるからセリフを言えるんだな」
そんなやり方でごまかせるのか?
「立ち見していた地元記者がこう言うんだよ『画面はハッキリしているが、声は男も女もみんな同じだな』って(笑)。それぐらいで、上映中に生で声をあてていたのは最後まで誰も分からなかったよ」
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)