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太平劇場とガヤヤー劇場 劇場を真っ二つに <沖縄まぼろし映画館>146


太平劇場とガヤヤー劇場 劇場を真っ二つに <沖縄まぼろし映画館>146 『愛染かつら』出演時の平良進さん(後列右から2人目)。当時16歳(平良進さん提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄芝居役者の平良進さんは1934年12月18日生まれの86歳。宮古島に生まれ育った進さんが、同島の『太平劇場』を根城にしていた「翁長小次郎一座」の門をたたいたのは終戦翌年のこと。わずか12歳だった。

 「僕は母と死に別れ、父は本土にいたから学校を出してくれる人がいない。どうやって生きていこうと考えたときに、一座の芝居や劇場の雰囲気が好きだったことを思い出して」

 だが、意外にも役者になるつもりは毛頭無かった。

 「宮古なまりがあるし、沖縄本島の言葉が理解できないから。でも一座は劇場そのものを経営して忙しそうだったので、雑役として雇ってもらえるんじゃないかと」

 苦労人だった座長の翁長小次郎は、進少年が宮古口(みゃーくふつ)しかしゃべれないことを理由に一度は断ったものの、彼のけなげさをくんで迎え入れることにした。

 「(座長は)自分たちはいつまでも宮古島にいないぞ。巡業で石垣島、本島にも行くぞと。でも逆に島を出られるんだとうれしくてね(笑)。ぜひ、やらせてくださいと。これがきっかけ」

 座長の「進取の気性」もあって、一座では沖縄芝居はもちろん、本土の標準語芝居、時にはオペレッタまで演じられた。

 「特にウケたのは『愛染(あいぜん)かつら』。ぼくは看護婦の役をやったよ(笑)」

 芝居専門の『太平劇場』だったが、一座の主催で映画が上映されたこともある。

 「ボブ・ホープが出ている喜劇映画だった。たしか16ミリ。字幕も無いけど、終戦直後だったし映画だったら何やっても客が喜ぶわけ」

 やがて翁長一座は石垣島に向かった。彼らのすごいところは、長期興行のために自分たちで劇場を作ってしまったことだ。

 「特に名前は無くてね、『ガヤヤー劇場』と呼ばれていた。かやぶき家(ガヤヤー)だったから。とっても涼しかったよ」

 その劇場の建設には逸話がある。

 「座長は当初、『千歳館』を経営していた山城興常と一緒に『八重山館』という劇場を作ったけど、経営のことでけんかしてしまったわけ」

 ここまではよくある話。だが、次にダイナミックすぎる展開を迎える。

 「それで怒った座長はね、文字通り劇場を真っ二つに割ってしまった。そして、その材料を使って『ガヤヤー』を作ったんだよ」

 終戦直後の荒々しさとバイタリティーが伺えるエピソードである。

 『ガヤヤー』を拠点にした翁長一座の人気はすさまじく、ライバル劇団の2倍の入場料を設定したが、それでも連日満員だった。

 余談だが、『八重山館』に2台あった映写機のうちの1台も『ガヤヤー』へ持ってきたが、「芝居専門だから使わずに置いていた」そうだ。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)