前回は、沖縄芝居役者の八木政男さん(90)に、沖縄民政府直営の竹劇団に所属していた頃のお話を伺った。今回も巡業で訪れた劇場についてお聞きした。
竹劇団が民営化した後も、八木さんたちの旅は続いた。「馬天劇場」(現在の南城市佐敷)では、肝を冷やす出来事があったという。
「(公演前に)トラックに乗って宣伝していたわけ。団員が三線を弾いて歌って、僕が〈ハル仕事もうちなんしみそーち、芝居んかいめんそーりよー〉(農作業を終わらせて芝居を見に来てね)って呼び掛けたら、運転手が笑って、そのはずみでハンドルがすっぽ抜けてしまったんだよ!」
折しも走っているのは田んぼの細いあぜ道。八木さんは慌てたが、運転手は意外にも冷静で、ハンドルを元の位置に差し込み事なきを得たという。廃品で組み立てたトラックだから起きた、とんでもない話である。
やがて大宜見小太郎(八木さんの実兄)と宇根伸三郎が1949年2月に「大伸座」を旗揚げ。八木さんも加わった。
「大伸座」は当時から人気絶大で、50年9月1日に沖縄戦後初のコンクリート劇場として誕生した「世界館」のこけら落としでは、「松劇団」「寿座」と合同公演を行い、その20日後に開館した「首里劇場」のこけら落とし公演も行った。ちなみに「世界館」開館の演目は『姿三四郎』。なぜか「中央劇場」館主の仲井真元楷が、役者でもないのに主役のライバルとして登場したそうだ。
「みんなびっくりしていたけど、元楷先生は空手の達人だから」
何ともおおらかな時代である。
八木さんが25歳にして初めて時代劇の主役をつとめた舞台も「世界館」だった。その時、生涯忘れられない経験をした。
「敵役を斬ってカッコよく刀を構えたら、歌舞伎のかけ声みたいに2階席から〈政男ー!〉って声が掛かったんだよ。初めてだし、こんなうれしいことはないさ。役者冥利(みょうり)に尽きる。楽屋でも(劇団の)みんなが喜んでくれた」
すると、今回の主役を八木さんに譲った先輩役者がやって来て、こんなことを言う。
「政男ーんち、あびーしぇ、ちかりー?てぃ、やるばーよ(政男と叫んだのは聴こえたか?って言うんだよ)」
何のことだか分からない八木青年だったが、すぐに言葉の意味を理解した。
「あんしーね、政男んでぃちあびたーしぇ、うんじゅるやてぃ!(すると、政男と叫んだのはあなただったのか!)…彼は戦前、大阪に長いこと居て歌舞伎の大向こうを知っていたわけ。だから良かれと思ったんだな。でも…本当のことを言わないでほしかった。やーにんじゅどぅやるむん(身内なんだから)」
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)