役者・演出家の八木政男さんは1930年11月25日生まれの90歳。43年に実兄の大宜見小太郎に請われて大阪で沖縄芝居を始めて以来、70年以上にわたって、舞台に立ち続けたレジェンドである。
「沖縄に戻ったのは終戦翌年。那覇港に着いて収容所に連れて行かれたのだけど、(戦災で)家が1軒も無くてね、涙を流したよ」
インヌミヤードゥイ引揚収容所(現在の沖縄市高原)を経て、姉が暮らす石川市で軍作業に従事しているときのことである。
「小太郎から劇団に配属されるって話がきたわけ」
これは娯楽に飢えていた住民の慰安を図ろうと46年、沖縄民政府の直轄で運営された官営劇団のこと。松・竹・梅の3劇団があり、それぞれ中部、北部、島尻の地区を割り当てられて巡業した。
「資格審査があったよ。戦前からの役者は受けなくて良かったけど、私は子どもだったから受けさせられた。民政府のお偉方の前で〈上り口説〉を踊ったよ」
八木さんは竹劇団に所属が決まり、トラックに乗って巡業する日々が始まった。
「北部を回っていた僕らはうらやましがられた。ヤンバルだから米があるんだよ。例えば恩納村に行くと、“芝居を見せてもらっているのにイチャンダ(無料)はないだろう”って、お客さんが米を1合ハンカチに包んで持ってきてくれる。一番困っていたのは南部を回っていた梅劇団。激戦地だったから芋しかない。冗談で“交代してくれ”って言われたよ」
特に思い出深いのが「名護劇場」。後に立派なコンクリート建ての映画館となるが、八木さんが訪れた47年ごろは露天劇場だった。ある日のこと、いざ幕を開けようとしたそのとき、名護湾にヒートゥ(イルカ)の大群が現れたとの報がもたらされた。
「お客がみんな飛び出てヒートゥ(イルカ)狩りに。僕ら役者も化粧していない人はみんな行ってしまって」
かつて名護では、湾に迷い込んだイルカたちを住民総出で捕らえる風習があった。当時は名護漁港の辺りの埋め立てが行われる前で、「名護劇場」のあった城区は海岸から近かったということもあり、客は一斉に海岸へ行ってしまったのだ。やがて客は劇場へ戻ってきたが、誰が木戸銭を払ったか分からない。
「それでも(館主の)湖城さんは肝っ玉が大きい人だったよ。とても喜んで」
幕が下りた後、館主からヒートゥ肉の差し入れまであったそうだ。
(平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
(當間早志監修)
(第2金曜日掲載)