prime

コザパラダイス(中部沖映館) 歓楽街と共に誕生 <沖縄まぼろし映画館>140


コザパラダイス(中部沖映館) 歓楽街と共に誕生 <沖縄まぼろし映画館>140 1952年9月ごろ。「コザパラダイス」の名称が少しだけ見えているが、この時期はすでに「中部沖映館」に改称していた(山城勝徳氏提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 外部執筆者

 沖縄市の国道330号沿い、諸見百軒通り北側入り口そばに、かつて社交街として栄えた「パラダイス通り」がある。そこに存在していたのが「コザパラダイス」という映画館だ。

 この通りの成り立ちは、加藤政洋(立命館大学教授)の論文「コザの都市形成と歓楽街」に詳しい。

 同論文によると、軍道5号線の拡張工事に伴う民家68軒分の立ち退きの代償として、1950年9月5日に諸見里原の4千坪が開放された。越来村(後のコザ市)の大工廻朝盛村長の旗振りの下、歓楽街として開発されたという。その際、道路の突き当たりに映画館が配置された。これが「コザパラダイス」である。52年正月号の琉球新報に劇場の広告が掲載されているので、歓楽街と共に誕生したのだろう。なお、同号では劇場があった場所は「越来村新生通り」と書かれているが、これが後の「パラダイス通り」だ。「コザパラダイス」という映画館があったことで、通り名が「パラダイス通り」と呼ばれるようになった可能性がある。

 やがて「コザパラダイス」は52年に「中部沖映館」へ改称。59年に中の町(沖縄市上地)へ移転した(66年閉館)。残された劇場は、「諸見演劇場」になる(60年4月17日付の琉球新報に上演情報が掲載)。

 「コザパラダイス」について知る人を求めて現地へ向かった。

 「パラダイス通り」は急勾配の細い道から始まる長さ120メートルほどの路地。営業をしている店舗はほぼ無く、静まり返っていた。

 劇場があった敷地には3軒のアパートが建っていた。跡地の隣に住む67歳の男性に尋ねると、館名は思い出せないが、小学生の頃に劇場の従業員からチケットをもらって映画『赤胴鈴之助』シリーズ(57~58年)を見たという。

 通り沿いに小さな民家があったので飛び込んでみる。そこには40年生まれ、御年80歳の女性が1人で暮らしていた。いわく嘉手納の出身で、21歳でここに嫁いできたが、劇場はすでに無かった…ということは、「諸見演劇場」は61年までには閉館していたのかもしれない。続けて彼女は、この通りに住み始めた当時のにぎわいについて、ぽつぽつと話してくれた。その頃はAサインバーが軒を連ねており、深夜まで酔客が騒いでいたという。時には就寝中に酔っ払ったアメリカ人が靴を履いたまま家に入り込んできたこともあるそうだ。だが、その喧騒(けんそう)も復帰前までのこと。

 「あの頃のことを知っている人も少なくなったよ。あんたは勉強して偉いさ。頑張りなさいよ」

 彼女はそう言うと、筆者の手を強く握りしめた。

 (平良竜次、シネマラボ突貫小僧・代表)
 (當間早志監修)
 (第2金曜日掲載)