死を覚悟、恩納岳へ避難 大城強さん 捕らわれた日(8)<読者と刻む沖縄戦>


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恩納村恩納の集落近くに残る避難壕

 1945年4月1日、米軍が本島中部西海岸に上陸します。大城強さん(82)=読谷村=ら一家10人は恩納村恩納集落近くの壕に逃げました。その後、恩納岳へ避難します。

 日本軍は米軍の進攻を阻むため集落近くの橋を破壊しましたが、米軍はただちに修復し、北部への進攻を続けました。日米両軍の力の差を見せつけられました。

 《我々0歳から15歳までの子どもを含む一家10人は、その橋からほど近い共同避難壕に避難していた。父親から「今日は最期の日となるかもしれないから、一番良い着物を着なさい」という指示があった。みんな覚悟を決め、山を越え、谷を渡って、さらに山奥の恩納岳の麓へと、長い逃避行の始まりとなった。当時、巷(ちまた)ではさまざまな噂(うわさ)が飛び交い、米軍に対する恐怖心を煽(あお)っていた。》

 恩納住民の間でも「アメリカーに捕まったら女は強姦されて殺され、男は耳から耳に針金を通され、車で引きずり回される」という噂が広まっていました。大城さんは噂を信じ切っていました。

 ところが、予想外のことが起きました。1人の米兵が山中に隠れている住民の前に現れ、一個の箱を置いていきました。中にはカンパン、チーズ、ジャムなどの食料品、たばこ3本が入っていました。

 「米兵はおとなしそうな人だった」と大城さんは話します。