日本軍が「壕を退去するよう命令」住民が日記に 沖縄戦で米軍攻撃の中


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沖縄戦中の出来事などが記されている與儀達清さんの日記

 沖縄戦中に家族で本島南部などに避難した様子を、当時38歳だった真和志村(現那覇市真和志)の会社員が日記に書き残していた。男性は大阪商船那覇支店に務めていた與儀達清さん(1988年他界)。達清さんはハワイ出身の妻チヨさん(当時35歳)と2男2女、父達善さん(当時75歳)を連れて、米軍の激しい攻撃の中で「壕の立ち退きとともに、再び玉城へ退去命令あり」など日本軍に壕を追い出されたことや、行き先を指示されたことなどを記録した。

 沖縄戦研究家らによると、激戦地だった本島南部を避難中に住民が書き残した日記はこれまで確認されていない。

 沖縄戦を研究する石原昌家さん(沖縄国際大名誉教授)は「日本政府は壕追い出しについて、軍の要請で『壕提供』したと事実を捏造(ねつぞう)し、住民に戦闘参加者という身分を付与して遺族給与金を支給するとともに、靖国神社に合祀(ごうし)した。だが與儀さんの日記では、決して軍への戦闘協力者として壕提供したとは読めない」と指摘した。

 日記がつづられているのは縦12・5センチ、横7・5センチの日本郵船の船員手帳。達清さんは10・10空襲のあった44年10月10日から、米軍に保護される45年6月20日まで、米軍の攻撃や日本軍の退去命令などを受けながら日記を書き続けていた。

與儀達清さん

 日記には、45年5月26日に真壁(糸満市)で「壕を出された」、同年6月2日に玉城(南城市)で「壕を退去するよう命令される」など、與儀さん一家が南部に避難中、ようやく見つけた壕から日本軍に退去を命じられたことが記録されている。日本軍が住民保護より自分たちの避難場所の確保を優先したことがうかがえる。

 日本軍と警察の指示が一貫せず、南城市玉城から糸満市真壁に向かったものの、また玉城に戻るように指示され、戦場をさまよう様子も記している。「誰かが馬肉を分けてくれた」(45年5月8日)など、食料を分け合う記録があり、極限状態の中でも住民が助け合っていた様子も記載されている。

 一家は中部から南部への避難途中で達善さんと長女エミさん(当時8歳)とはぐれた。エミさんとは10日後に再会を果たしたが、達善さんは消息不明となった。長男の竹伸さん(当時6歳)は45年8月に病死した。

 日記は次男の隆さん(77)が両親からの聞き取りを踏まえて編集し、達清さんが他界した88年に英訳を公開した。日記がつづられた手帳は県内の親類を通じて2007年10月に県平和祈念資料館に寄贈された。
 (松堂秀樹)