住民に責められ壕を出る 幸地賢造さん 捕らわれた日(23)<読者と刻む沖縄戦>


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糸満市糸洲、小波蔵の集落へ続く道

 米軍の砲撃で南風原村(現南風原町)新川の自宅裏に築いた壕を失った幸地賢造さん(84)=西原町=の家族は南部に避難先を求めます。父賢盛さん、母カメさん、姉、弟、2人の妹や弟ら8人が行動を共にしました。

 新川をたった時期ははっきりと覚えていませんが「4月に入っていたと思う」と賢造さんは語ります。自然壕や石垣に隠れながら、ゆっくり移動しました。

 《父を先頭に母は三女をおぶって頭に荷物を載せ、姉も四男をおぶって頭に荷物を載せていた。三男の僕と妹の次女はかばんを背負い、皆一団に昼は自然の穴や木の下、石垣に身を隠した。夜は照明弾が上がると消えるまで制止し、消えたら前進の繰り返し。》

 一行は一日橋を経て、南風原村津嘉山、豊見城村(現豊見城市)の長堂、兼城村(現糸満市)の武富、阿波根、潮平へと南下していきます。

 途中、ある集落の自然壕に3日ほど滞在しました。すると先に避難していた地域住民から「あなた方が戦を持ってきたんだ。これまでは弾も飛んでこなかったのに」ととがめられたといいます。不穏な空気を感じ、賢盛さんの判断で家族は壕を出ました。

 その後、高嶺村(現糸満市)真栄里の入り口からなだらかな坂道を上って、真壁村(現糸満市)の糸洲、小波蔵の集落に入ります。民家は避難民でごった返していました。