<特別評論>「沖縄に無関心」安倍首相が生んだ本土との分断


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
全戦没者追悼式に出席した安倍晋三首相(左)=2016年6月23日、糸満市の平和祈念公園

 民主党政権時代の2012年9月、自民党は沖縄県内で初めて総裁選の立候補者による街頭演説会を開いた。那覇市のパレットくもじ前でマイクを握ったのは、欠席した町村信孝氏以外の安倍晋三、石破茂、石原伸晃、林芳正の4氏。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題を取り上げた石破氏をはじめ3人が沖縄のことを語る中でただ一人、安倍氏だけが沖縄について言及しなかった。

 自民県連が大動員した聴衆を前に沖縄の振興や基地問題に何ら触れなかった安倍氏。沖縄に関心がないのか、それとも辺野古移設が退陣の引き金になった鳩山政権の轍(てつ)を踏まないよう用心したのか。その疑問を抱きつつ、安倍首相が再登板した4カ月後、東京報道部で第2次政権を取材することになる。

総裁選街頭立会演説会の候補者として来県した安倍首相(右から2人目)。他の候補者の(左から)林芳正氏、石原伸晃氏、石破茂氏らの姿も=2012年9月21日、県庁前交差点

 自民党は12年末の衆院選で圧勝し、政権を奪還する。首相に就いた安倍氏は「民主党政権ができなかったことを全てやる」と拳を振り上げた。その中には辺野古の新基地建設も含まれていた。

 しかしながら、それから7年8カ月の間、沖縄の問題で安倍首相が前面に立ち、または身を挺(てい)して取り組んだ様子は見えない。

 辺野古移設を進めるため政権が最初に行ったのは、県外移設を公約して当選した自民党の県選出・出身国会議員5人を辺野古移設容認に覆させたことだ。交渉に当たったのは党幹事長の石破氏だった。

 辺野古埋め立ての権限を握る仲井真弘多知事(当時)から13年末、承認を取り付けたのは「沖縄基地負担軽減担当」を兼務する菅義偉官房長官だ。菅氏は基地問題や選挙などで常に主導的役割を果たしているが、安倍首相の影はおぼろげだ。

 就任直後と慰霊の日以外、来県も遠のいた。翁長雄志知事以降は6月23日の沖縄全戦没者追悼式に出席してもとんぼ返りで知事と会談することもない。

那覇空港第2滑走路建設予定地を視察する安倍首相=2014年6月23日、那覇市大嶺の那覇空港

 そもそも沖縄に関心がないのだと実感させられたのは安倍首相肝いりで13年4月28日に開かれた「主権回復の日」式典であった。太平洋戦争敗戦後、連合国の占領下に置かれた日本は1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効によって独立国に復活したが、同時に沖縄が日本から切り離され、米統治下に置かれることが確定した。

 安倍首相は国会で「わが国が主権を失っていた7年間の占領期間があったことを知らない若い人が増えている」と力説したが、この日を「屈辱の日」と呼ぶ沖縄の歴史は頭の片隅にもなかったに違いない。

参院選の応援で来県し、演説後に支持者のもとへ駆け寄りタッチをする安倍首相(右)=2013年7月16日、那覇市県民広場

 戦後生まれの初の首相だった安倍氏の下では、過去の自民党にあった、歴史を踏まえた上で沖縄に相対するという政治手法は消えた。無関心のままに「米国との約束」である辺野古移設を強行した政権は、逆に辺野古反対の一点で結節した「オール沖縄」という政治勢力を生み出すこととなった。

 ポスト安倍が誰になっても、沖縄の民意に対する安倍式無関心が受け継がれる限り、政権の姿勢によって生ずる本土と沖縄の分断は解消され得ない。歴代最長の安倍政権が浮き彫りにした本土と沖縄の姿だ。

 島洋子(しま・ようこ)琉球新報編集局報道本部長

 1991年に入社し政経部、社会部、中部支社宜野湾市担当、経済部、政治部、東京報道部長、政治部長、経済部長などを経て現職。連載「ひずみの構造―基地と沖縄経済」で、2011年「平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞」を受賞。沖縄市生まれ。

 

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