祖母と父が亡くなる 宮城定吉さん 収容所で(36)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の南風原町新川

 1945年3月末、米軍は沖縄本島上陸を前に空襲と艦砲射撃を開始します。南風原村(現南風原町)新川で暮らしていた宮城定吉さん(85)=那覇市=は米軍の戦闘機による機銃掃射を目撃します。新川周辺にも艦砲弾が落ちるようになりました。

 4月になり、米軍が本島中部に上陸したという話を聞きます。両親と祖母、妹、2人の弟と一緒に、新川にあった壕に移動しました。場所は現在の嬉野が丘サマリヤ人病院の近くです。

 「昼間は壕に避難し、米軍の攻撃が収まる夜は家に戻って寝るという生活でした。朝起きて、また壕に避難するんです。壕での食事を作るのが僕と母の日課でした」

 4月9日朝、艦砲弾の破片で祖母カミさんが犠牲になります。その時、定吉さんは母ウシさんと共に首里赤田町にある親類の家で食事を作っていました。そこから新川にある壕の周辺に艦砲弾が落ちるのを見ていました。

 ウシさんと急いで戻ると妹の敏子さん、5歳の弟の定福さんが壕の外で泣いていました。壕入り口にいたカミさんは破片を受け、事切れていました。

 それから約2週間後の4月22日、父の次郎さんが壕で息を引き取ります。飛行場建設や陣地構築に駆り出されていた前年から体調を崩しており、カミさんの死後、次郎さんは一気に衰弱が進みました。

 家族は大黒柱を失いました。