砲弾炸裂 弟の額に破片 収容所で(37)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
那覇市首里赤田町と南風原町新川の境を流れる安里川

 父の次郎さん、祖母のカメさんを亡くした宮城定吉さん(85)=那覇市=と家族は南風原村(現南風原町)新川で避難生活を続けました。4月末、砲撃が激しくなり、家族は次郎さんが掘った壕を離れ、酒屋の屋敷内にある壕に移動します。

 戦闘が首里に迫った5月、首里と南風原の境界を流れる川にかかる石橋の下に隠れました。橋の下で定吉さんは指で弾丸の形をつくり、5歳の弟の定福さんの左眉の上に「ピューポン」と当てるまねをして遊んだのを覚えています。

 家族が新川を離れたのは5月20日のことでした。「少しでも生き延びるために島尻へ下がろう」と母ウシさんが決断しました。2人の弟をウシさんが抱き、妹の敏子さんが雑のうを肩にかけ、昼ごろ出発し、夕方、宮平集落の焼け残った瓦ぶきの民家に隠れます。

 その夜、民家近くの製糖工場で砲弾が炸裂(さくれつ)し、飛んできた破片が敏子さんの耳をかすめ、定福さんの額に当たりました。定吉さんが「ピューポン」と指でつくった弾丸が当たるまねをしたところです。定福さんは即死でした。石橋に隠れていた兄弟の遊びがその後、定吉さんの心の傷となりました。

 2日後の5月22日、第32軍司令部は首里城地下にある司令部壕で開いた会議で南部への撤退を決めます。定吉さんの家族は激しい地上戦に巻き込まれていきます。