砲弾破片、母の命奪う 収容所で(38)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
軽便鉄道の線路があった糸満市与座のサトウキビ畑

 1945年5月末、南風原村(現南風原町)新川を離れ宮平の民家に避難していた宮城定吉さん(85)=那覇市=と母ウトさんは、砲弾の破片で亡くなった5歳の定福さんを南風原国民学校の近くの土手に埋葬します。

 指で弾丸をつくって弟と遊んだことを思い出し、自分が殺したようなものという思いに定吉さんは苦しみます。ウトさんは涙を流し「お前は幸せかもしれないよ」と言いながら定福さんを葬りました。

 その後、東風平村(現八重瀬町)志多伯を経て高嶺村(現糸満市)与座へ向かいます。「東風平から与座まで軽便鉄道の線路の上を歩きました」と定吉さんは語ります。その間、南へ向かう避難民と多くの遺体を見ました。

 6月中旬、家族は真壁村(現糸満市)真栄平にたどり着きます。集落には日本兵もいました。ここにも砲弾が落ち、家族は危機に直面します。そして17日昼、炸裂(さくれつ)した砲弾の破片でウトさんが命を落とします。「日本兵が母を外に運び出しました」と定吉さんは話します。

 その頃、日本軍から「アメリカの大将が日本兵に撃たれた。アメリカ兵は報復で捕虜の日本兵を何百人も殺した」といううわさ話を聞きます。

 沖縄戦で日本軍と戦った米第10軍司令官のバックナー中将が6月18日に高嶺村真栄里で戦死します。その後、米軍は住民、日本兵を問わず、無差別に殺りくします。