弟亡くし2人で孤児院へ 宮城定吉さん 収容所で(39)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の糸満市新垣の集落

 両親と祖母、5歳の弟を米軍の砲撃などで失い、宮城定吉さん(85)=那覇市、妹の敏子さん、乳飲み子の弟定宗さんの3人が戦場に残されました。

 「母が亡くなり、おっぱいが飲めなくなった定宗は栄養失調で弱っていきました。サトウキビの汁を口移しで飲ませたりしました」と定吉さんは話します。

 3人は1945年6月23日、真壁村(現糸満市)新垣集落で米軍に捕らわれました。日本軍の組織的戦闘が終わったとされる日です。

 《その日は、なぜか砲弾、ライフルの音もなく、朝から静かな一日だった。妹や乳飲み子の三男弟、知り合いのおばさんと一緒に入っていた洞穴を出てみると、照明弾の落下傘の白い布を持った避難民が三々五々新垣部落の山の上に歩いて行くのが見られた。

 「戦争が終わった」と思い、弟を妹に背負わせ、避難民の後ろを追ってアメリカ兵のいそうな山の上に行った。》

 3人を収容した米兵の一人は敏子さんが背負っていた弟を見て、首を振ったといいます。定宗さんは既に息を引き取っていました。

 山の上では米兵が上半身裸でキャッチボールに興じていました。「これがアメリカ軍の戦争なのか」と定吉さんは驚きました。

 2人は移動先の知念村(現南城市)志喜屋で半月ほど過ごした後、コザ孤児院に移されます。