笑顔なく、食糧不足の孤児院 宮城定吉さん 収容所で(40)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
コザ孤児院が置かれた沖縄市住吉の集落

 南部の戦場をさまよう中で宮城定吉さん(85)と妹の敏子さんは親きょうだいら5人を失い、孤児となりました。1945年7月、2人は知念村(現南城市)志喜屋から大里村(現南城市)稲嶺を経て、コザ孤児院に送られます。

 《5月20日、家族で島尻に退避行動をとった。しかし、戦争が終わってみると、家族は祖母、父、次男弟、母、三男弟の順に砲弾や栄養失調で亡くなり、私は妹と2人だけの孤児になった。》

 コザ孤児院は米軍が越来村(現沖縄市)嘉間良、越来、安慶田などの一帯に置いた収容地区キャンプ・コザに設立されました。設立の時期は45年6~7月ごろとされています。800人の孤児が収容されていたとも言われていますが、はっきりしたことは分かっていません。

 小学生の子どもたちはテント小屋に、乳幼児は焼け残っていた2棟の瓦ぶきの家で暮らしました。この家は今も沖縄市住吉に残っています。

 コザ孤児院に着いた日の驚きを定吉さんは体験記に書いています。

 《孤児院の入り口には数人の孤児が立って、われわれを歓迎しているように見えた。が、車から降りると、孤児たちが近づいてきて、手に持っていた空き缶を差し出すではないか。よく見ると、皆裸でやせ細り、笑顔もなく、物欲しげな顔をしていた。》

 孤児院は食糧が不足していました。