夜、金網抜けだし「戦果」 宮城定吉さん 収容所で(41)<読者と刻む沖縄戦>


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コザ孤児院があった沖縄市住吉

 妹と共に越来村(現沖縄市)住吉のコザ孤児院で暮らすことになった宮城定吉さん(85)=那覇市=は空腹に悩まされます。「子どもたちは痩せ細って、おなかだけが大きかった。周囲の人たちは配給の食糧があったようだけど孤児院は不足していました」と宮城さんは語ります。

 孤児院で子どもたちは学年ごとに分かれて過ごしました。世話をしたのは、ひめゆり学徒隊や梯梧学徒隊の元隊員たちでした。宮城さんら5年生を担当したのはひめゆり学徒だった豊里マサエさんでした。

 《院には数百人の孤児がいたといわれる。学年ごとに教室のようなところに入れられ、先生と一緒に勉強もどきのことから、親子のようなことまで全てをやった。先生はひめゆり学徒の豊里先生だった。》

 孤児院では多くの子どもたちが亡くなったといいます。「僕は記憶にありませんが、妹によると毎日のように子どもが亡くなり、米軍が遺体をトラックで運び出したそうです」と宮城さんは話します。

 子どもたちは密かに孤児院を出て、食糧を探します。

 《夜になると体力のある孤児は金網を抜け出し、米軍の兵舎や難破船に忍び込んで缶詰類を盗んできたりした。盗みをしても悪かったという気持ちはなく、むしろ「戦果を挙げてきた」と自慢していた。》

 両親を失い、子どもたちは生きることに必死でした。