きょうだい、別々の家庭に 宮城定吉さん 収容所で(42)<読者と刻む沖縄戦>


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キャンプ・コザの主な施設が集まった沖縄市嘉間良

 両親や祖母、2人の弟を亡くした宮城定吉さん(85)=那覇市=と妹が暮らす越来村(現沖縄市)住吉のコザ孤児院には1945年7月の時点で600人の子がいました。自分の子がいないか探しに来る親たちが孤児院を訪れたといいます。

 《孤児院の周囲は金網で囲まれ、自由に出入りできないように造られていた。わが子を探して来る大人たちは、金網越しに中を覗いて立ち、孤児たちにお菓子をくれていた。孤児たちは“ワンカラ、ワンカラ”して手を出していた。それが日常の光景。》

 当時の新聞「ウルマ新報」(現在の「琉球新報」)は45年11月21日、28日、12月5日の3回にわたって「身寄を求む」の見出しで412人の子どもたちの名を紹介しています。宮城さんの名も28日付に記されています。

 コザ孤児院以外にも石川市孤児院(10月3日付)、宣野座市福山孤児院(12月12日)、宜野座孤児院(12月19日)、久志孤児院(46年1月23日)、瀬嵩市孤児院(同)で暮らす子の名を伝えています。コザ孤児院を含め、紙面で伝えた子の数は約750人に上ります。

 その後、多くの子は親類や知人に引き取られました。宮城さんと妹の2人も両親の知人が別々に引き取りました。「孤児院を出る時、豊里マサエ先生が自分の髪の毛を切って、お守りとして渡してくれました」と宮城さんは語ります。