豊見城市の登川吉雄さん(89)から体験記が届きました。登川さんは豊見城から糸満へ避難し、米軍に捕らわれます。その後、収容地区を転々とします。
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登川さんは1931年6月、豊見城村豊見城で生まれました。沖縄戦当時、3男2女の5人のきょうだいがいました。登川さんは長男です。父の明孝さんは兵士として中国大陸に渡っており、母の佳津子さんが子どもたちを育てました。
家は現在の県道7号の宜保入り口沿いにあり、雑貨商を営んでいました。戦争中は陸軍の酒保(売店)を兼ねていました。
44年、吉雄さんは豊見城第二国民学校(現在の座安小学校)の高等科1年になります。この年の夏ごろから「武部隊」と呼ばれた第9師団が村内に駐屯します。宜保集落側では海軍が魚雷格納庫を築きました。
「私たちの周囲にも日本軍が大勢おり、民家にも兵士が暮らすようになりました。海軍の将校がわが家の一番座を使いました。この時、ベッドを初めて見ました。食事は兵隊が持ってきていました」
精米に使う木臼(きうす)を借りるため家を訪ねてくる陸軍の兵士と仲良くなりました。「母は兵隊に教えてもらった『勘太郎月夜歌』をよく歌っていました」と吉雄さんは話します。酒保に酒を買いに来た兵士が憲兵にビンタを張られるのを見たこともあります。
学校は軍に接収され、学び舎を失った吉雄さんらは各集落の集会場で学ぶようになります。徐々に緊迫した空気が漂うようになります。