飛行場建設、壕造りに動員 登川吉雄さん 収容所で(45)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
県道7号の宜保入り口付近。右手に登川さんの家があった

 登川吉雄さん(89)=豊見城市=が暮らす豊見城村豊見城や隣接する宜保の住民は、軍の陣地構築や野菜など食糧の供出に追われるようになります。

 登川さんら豊見城第二国民学校高等科の生徒も、与根飛行場の建設や戦車壕造りに動員されました。

 「僕たちも壕掘りの手伝いをしました。軍に協力しましたよ」と吉雄さんは語ります。学校の奉安殿に収められていた「御真影」や教育勅語の避難場所となる壕造りにも従事しました。場所は現在の県営渡橋名団地の裏側です。

 1944年10月の10・10空襲の日の朝、登川さんは家の上空を飛ぶ米軍機を目撃しました。「最初は演習だと思っていました。那覇への攻撃が始まっていたと思います」と登川さんは話します。その後、近隣住民は軍の壕に避難しました。

 登川さんは軍人志望の生徒でしたが、中国にいる父の薦めで進学を目指し、県立第二中学校に合格します。しかし、県立二中は10・10空襲で焼けてしまいました。翌年には米軍が沖縄本島に上陸し、進学できないままになりました。

 44年末、精鋭といわれた「武部隊」(第9師団)が台湾に転出します。登川さんは日本兵から「台湾に行くことになった」と明かされました。

 45年3月、軍の命令で現在の県道7号より西側の住民は饒波方面に移動します。登川さんらも命令に従い饒波に移ります。